記憶。

スーパー・ササダンゴ・マシンの冠ラジオ番組『チェ・ジバラ』の聞き手として、毎週、収録に参加している。何をするわけでもないのだが、パーソナリティと共にラジオブースの中に入って収録に臨んでいる。

「聞き手」というのは、パーソナリティが、ラジオの向こう側にいる「リスナー」を想定するための物差し。リスナー代表のような気持ちで、毎週、なんの準備もなく、なんのプレッシャーもなく、収録に立ち会っている。

ただ、ときどき、番組の中でも、僕自身に関するエピソードが出てきたり、急に話を振られたりすることがある。そんなときは、当然、上手く話すことは出来ない。そもそも「話し手」ではなく、「聞き手」なのだから、話すのが上手いわけではない。

今週の放送回(2024年10月20日放送|第169話)では、自分の子ども時代の話を僕自身がすることになった。ササダンゴの質問に答えるだけなんだけども、当然、打ち合わせナシ。

話すのが下手だったし、僕の少年時代は、かなり父親の登場回数が多く、そのエピソードの全部でササダンゴに捕まってしまい、高校に入ったあたりで番組が終了した。

話しながら、僕は、改めて「聞き手とは、なんなのだろうか」と考えることになった。

この機会に「聞き手」の役割を調べてみた。まず、ググってみた。それっぽい記事が見つかった。リンク先には、放送大学という文字も見て取れる。記事は、こんな感じ。

小町真之 著 · 1991 — ラジオ番組における『聞き手』の立場. ディレクター 小町真之. (『教育評価』担当). 放送大学のラジオ授業番組の聞き手の立場というものは、たいへん微妙で難しい。

小町真之 著 · 1991 — ラジオ番組における『聞き手』の立場

なんとなく、それっぽい「箇条書き」があったので読んでみたけど、少し違うっぽい。放送大学の授業の資料か何かなのかな。ラジオ番組よりは、講義とか、ワークショップの「司会進行」に近い立場の説明に思える。要約すると

聞き手は「送り手の一員」であり、トークに変化をつける存在であり、自分が抱く疑問はリスナーも抱くはずなので、わかったフリをせずに、疑問は、必ず聞き返す必要がある

みたいなことが平然と書いてある。結構、重要な役割だった。今、知った。番組に聞き手として参加して丸3年。気持ちを改める必要がありそうだ。また、子ども時代のことを話す機会があるかも知れないので、そのための準備をしないとダメかも知れない。

以下、メモ

◉今にして思えば、娯楽の少ない家だった。小学生の頃、漫画本を禁止されていたが、なぜか漫画『ドラえもん』だけは推奨されていた。月に一冊くらい買ってもらえた。しかし、小3くらいで『ドラえもん』も禁止になった。

◉一日のうち、テレビを見ていいのは「2時間以内」とか、細かい制限があった。21時には、風呂に入り、歯を磨き終わって、布団の中に入っていなければならなかった。

◉小さい頃から、好き嫌いなく、なんでも残さずに食べるように教育された。食べるときは、テレビを消して家族の会話だけ。そして「ご飯茶碗、味噌汁、主菜、それぞれの位置」が細かく定められていた。

◉コーラなどの炭酸飲料は、中学生になるまで禁止されていた。

◉小5で両親の身長を超えた。旅行先の海岸で、父親と相撲を取り、勝ちそうになった。力では完全に勝っていたが、突如、父親が変化して、僕の膝をパンと叩いたと思ったら、仰向けに倒されていた。不思議な投げ技を食らった。小兵力士として、切れ味のある技を持つ父だったが、同時に小学生の息子と力比べをして、勝負師としての血が騒ぎ、息子を技術で引っくり返した。それ以外、父とは相撲をとっていない。

◉小6のとき、夕陽の差す公園で、父とキャッチボールをしていたとき、当時、盛んに腰が痛いと言っていた父が、力なく「俺が死んだら、母さんを頼むな」って言ってきた。僕は、(お父さんは、腰痛ではなく、何かしらのガンなのか)と覚悟したが、あれから40年近く経つ今も、父は元気。マジで、ただ腰痛だった。父はそういう男だった。

高校時代
◉新潟南高校の体育の授業で「100m、幅跳び、高跳び、砲丸投げ」とか、何種目かの記録をとって、学年順位が貼り出されていた。体育教師が言うには「赴任してから何十年か経つが、こんな記録は見たことない。歴代一位だぞ」と言われた。

◉そのときの砲丸投げは白線が10mまでだったが、その外側まで投げた。14m投げた話。

社会人
◉25歳のとき、母親がピーマンが食べれないことを初めて知って衝撃を受けた。自分の嫌いなものも食卓に出していたこととか、その歳になるまで隠し通したこととか。

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