コシュ・バ・コシュの感想


Khudojnazarov Bakhtyar, "Kosh ba kosh", Pandora Film, 1993.

   自分にとってエキゾチックなものについて、過剰な評価をあたえることは妥当だろうか?  かりに、日本映画に登場する人物や風景が、われわれには見慣れた風景にすぎないものでも、ほかの観客たちから、日本人だから、日本のものだから、その映画はエキゾチックであるために、とても良いと言われてそれほど納得はできないなら、コシュ・バ・コシュという映画もその画面によって評価されたほうがよい。

    コシュ・バ・コシュ。咽喉から発する間歇的呼気。かるく、かぐわしき若さ。コシュ・バ・コシュ。舌後部を口蓋にあて、開放された吐息。歯列を通過する嵐。そっとふさがれた口唇、かまびすしき気流。かかやかしき咽喉の暗がりをまたして閉ざす舌根。うちかえす気息の嵐。コシュ・バ・コシュ。

    タジキスタンのことは何も知らない。その風景のなかの植生がなんとなくロシアや北海道と似ていることを思って、それからWikipediaでムスリムが居住していることは知った。内戦中の撮影と聞いて、クストリッツァの「オン・ザ・ミルキーロード」を思い出した。銃声のなかで結ばれる恋は、はじめは間違いのようなものだったが、銃声とは無関係に発露し、恋愛映画の定石として次第に真剣さをおびていく。
    この映画は賭博からはじまる。恋は賭博のようなものだとでも言いたいのかもしれない。その通りだと思う。分別がある大人は賭博をしない。分別がある若者は銃声が聞こえても恋愛をする。この恋愛は賭博の負けから始まり、賭博によって終わる。コシュ・バ・コシュとは、勝ち負けなしを意味するタジク語の俗語らしい。

参考https://inagara.octsky.net/%e3%82%b3%e3%82%b7%e3%83%a5%e3%83%bb%e3%83%90%e3%83%bb%e3%82%b3%e3%82%b7%e3%83%a5

  ロープウェイを上昇したり下降しながら、老いて分別がなくなり、賭け事にしか楽しみのない男たちのまわりで、恋人たちが自分たちの世界をつくろうとしている。その対比は痛快であり、痛切でもある。そこには言葉にできない2つの世界がある。ひとつは憎しみであり、ひとつは恋だ。憎しみの世界はすでに完成しているが、本人はまだ復讐が未完だと思っている。恋の世界はすでに完成しているけれど、かれらにはいつも未完の作品としてよこたわっているから、閉ざされたロープウェイの床面に伏して、体をからませて、終わりのない一瞬を忘れまいとしている。恋愛映画が好きになれないとしたら、いつか自分もかれらも周りの賭博師たちのようにしかならないような気がしてしまうからだろう。それでも貧しいかれらは、自分が持っている最大の財産である時間を相手に賭す。そこには勝ち負けがない。
   


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