SFの人間と言語について

   SFでは進化した人類や、異星の異なったありかたの知的生命体が登場する。人類は人類より上位の存在か、単に違いのある存在を描いている。そのいずれとも意思疎通ができているが、なぜなのだろうか。
    異なる音域や光、化学物質や触覚や、その他を用いて意思疎通する異星人はいくらでもかかれているのに、そもそも言語の意味という単位が翻訳可能な場合しか、寡聞にして知らない。というのは、いずれにしても人間の言語に翻訳可能な単位である「分節」を基準にしているらしいから、人間の言語に翻訳できるということは、未来社会が私たちのような分節言語を採用していると、いつの未来も、どこの未来社会も、思っているらしい。
     つまり、言語によって言語をこえることが出来ていない。言語によって言語はこえられないから仕方がない。

  分節言語ではない言語は可能なのだろうか?言語は意味のあつまりだから、私たちが認識している意味という単位から脱出しないと、私たちの認識はいつまでもとらわれたままということになる。私たちの認識が言語によらずして、言語をこえるような認識を持ち得るだろうか?主客の転倒した認識論みたいな話で、そんな話はこの文章で言いたいこととは少し逸れる。

  異なる感覚が人類に備わったとしても、それは異なる分節がくわわることにしかならない。分節とは違うものについて、私たちは希求している。

  水を知ろうとしてコップの水を見つめている哲学者が、銀河鉄道999にはいた。私たちは水という分節にとらわれているし、そのように認識している。

   分節という単位を失ったときに人類はかわる。それは遺伝子の操作や宇宙への進出では果たされない。宇宙人と意思疎通がどうにかできた場合でもかわらない。チャイナ・ミエヴィルの『言語都市』は、分節の単位がどうやら異なるらしい宇宙人を前半では描いていたのに、後半は結局主人公である人類側の言語に収束してしまったから、分節に普遍性があるかのように描かれている。そんなものにどんな普遍性があるのだろうか?

   飲む水、雲、水蒸気、雪、氷、その他いずれも水という意味の単位を言い換えているけれど、人間が使用する水という単位はどこまで意味をうしなえるのだろうか?水でなくたっていい。意味の最小単位、分節言語ではない言語を人間は持つことができるのだろうか?持てたとしたら、どんな小説という単位がかかれるのだろう?