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「赦す」ことは、忘れることとは全く違う ー 覚えておくことが必須

「赦す」というと、何を想像するでしょうか。

南アフリカ共和国のアパルトヘイト政策に対して、命の危険を省みず反対し続けたDesmond Tutu(デスモンド・トゥトゥ)元大司教は、以下のように言っていました。

「Forgiveness(フォーギヴネス/赦し)は忘れることとは全く違う。実際には、(赦すということは)覚えていることで、覚えていても、(加害者に対して)なぐりかえす(同じことをやり返す)権利を使わないということです。
それは、新しい始まりへのセカンド・チャンスであり、覚えている、という部分は特別に大事な部分です。
特に、起こった事が繰り返される(加害者が加害を再び行う)ことを望まないならば。

イギリスも、無信教の人も多いとはいうものの、基本はキリスト教が基盤になっているので、「赦す」ということが宗教上・文化的に自分自身に自分でプレッシャーをかけることになっている場合もあるようです。
でも、心理学者たちも、トラウマを抱えるような加害を受けた被害者に対して、「赦す」ということを最終目的にするのはおかしいし、「赦す」ということに、とても貴重であるかのような価値を置くのも間違っている、という意見が多いです。

宗教上・文化的に刷り込まれているのは、自分の中で「(加害者の犯した罪を)赦さないと」というプレッシャーで、日本のように、周囲の人々から、加害者の責任には触れず、「(加害者のことを赦して)すべてを忘れて前に進みなさい」というのとは全く違います。
イギリスを含むヨーロッパでは、加害者の責任は常にきちんと問われ、法や決まりに沿った罰則等があり、それを逃れることはまずできないし、強い者に巻かれろ、といったことは、とても卑怯で恥ずべきことだと認識されているので、そういう周りかのプレッシャーはありません。
加害者が加害に向き合い責任を取る、といった正義は追求されます
加害者がきちんと責任を取った後は、彼らが社会のよい一員・仲間となるよう、サポートする土台が社会にはあります。
彼らにも、良い行動を選び、行うことを続けるという、新たなチャンスが与えられるのは、当然の権利だとされています。

「赦し」というのが難しいのは、加害が起こる場合、多くの場合は、加害者が圧倒的に強い立場にあり、被害者がとても弱い立場にある、という力のインバランス(不均衡)が挙げられるでしょう。
そもそも、力の均衡が同じくらいだったら、加害者も最初から加害を行わない可能性も高いでしょう。
当事者の二人(二グループ)で決めるよう言われたとしても、片方が圧倒的に力をもっている状態で、フェア(公平)な話し合いは成り立ちません。
この力の不均衡さを調整するために、圧倒的に力が弱い被害者側を強くし、同等に話し合いができる環境を作る必要があります。
たとえば、子供が被害者で、父親が加害者の場合は、子供に弁護士・福祉の専門家・心理カウンセラー等のグループをつけ、かつ母親が夫(子供にとっては加害者の父親)に取り込まれないよう、母親へのサポートもしっかりとあることで初めて、ある程度の力の均衡ができるでしょう。

「The Caste(ザ・カースト)」を書いたベテランジャーナリストのIsabel Wilkerson(イザベル・ウィルカーソン)さんの本の中で(私は原初の英語版を読んだので、日本語版の翻訳はかなり違うかもしれません)で印象に残っているのは、白人が黒人に対して行った加害について、被害者である黒人が加害者である白人を「赦す」ことが、白人間でもてはやされるのは、自分たち白人グループが集団的に長く行ってきた黒人たちへの暴力や殺人・差別的な仕組は、言われているほど悪いことではないし、黒人差別はもう昔のことで終わっていて自分とは関係なく、自分たちの罪深さを考えなくていいからだ(=自分たち白人は常に正しくイノセントだという幻想が保たれる)、といったことでした。
ここではアメリカを例にとっているので、アメリカの人為的に作られた優位グループにいるのはたまたま白人で、従属グループに入れられたのが黒人やほかの有色人種なので、白人と黒人という対比になっていますが、男尊女卑の強い日本であれば、優位グループである男性から、従属グループの女性や子供という対比にもなるでしょう。
力のインバランスが大きいときに、弱い立場のひとに「赦す」よう強制することは、不正義で、被害者に対する新たな暴力ともいえます。

ひとつの考え方は、「赦し」は自分の内側から生じるもので、加害者が自分の罪を認めて反省しようとしまいと(加害者の考えや言動にコントロールがあるのは加害者だけなので)、自分の中での自分の正当な怒りを認め、セラピー等で扱い、自分に行われたことは赦し、怒りから自由になるということも可能だというものです。
もちろん、赦さない自由もあり、怒りや憎しみから自由になるために必ずしも「赦し」が必要なわけでもありません。
イギリスのセラピーでも、「赦し」をゴールや目的にすることはないでしょう。被害者が加害された影響(自分が背負わざるをえなかったトラウマ等)を扱う必要はあるものの、加害者に対してなんらかの責任を負うわけではありません。
加害者や周りの人々の気を楽にするため、被害者が加害者を「赦す」義務は、100パーセントありません。

「赦す」ということと、reconciliation(リコンシリエィション/仲直りして相手と再び関わるようになる)というのは、全く別物だと理解されています。
加害をしたことや、それが被害者に与えた影響や結果を見ないふりをしたり、理解したくない人だって存在するし、見せかけだけで謝罪を行い、被害者に再び近づき、同じ加害を何度も繰り返すことも十分ありえます。

往々にして、被害者に対して「(加害者のやったことを)忘れて、加害者を赦す」ようプレッシャーをかけてくる人々は、加害者自身が自分が行ったことに向き合いたくなかったり(=責任を取りたくない、自分はイノセントで良い人だという幻想を持ち続けたい等)、被害にあった人たちの苦しみや痛みをみることに耐えられない周囲の人々だったりします。
他の人々が、被害者に「赦す」よう強要したり、プレッシャーをかけたり、被害の内容を軽く見て、なんでもなかったことだとするのも間違っています。
「赦す」かどうか決められるのは被害者だけす。

本当の贖罪とはどういったものでしょう。

Judith Herman(ジュディス・ハーマン)さんの本の中には、珍しい例として、父親からの性加害を赦し、再び家族で集まることを受け入れる女性の話が出てきます。
彼女の条件は、父親が、自分(娘)への性加害について正直に親戚全員の目の前で事実を語り、父親は将来的にも、絶対に子供たち(姪や孫等)と二人っきりになることはない、ということでした。
父親はこれを受け入れ、かつ親戚の誰もが加害内容を知っているので、この父親と子供たちを二人っきりにさせないことに注意を払う目がたくさんあります。真に反省したからこそ実現することでもあり、タガがゆるむこともあることを見越して、周りが父親が犯した罪を知らされていて、覚えていることは、同じ被害を出さない為にもとても重要です。
この女性も、「赦す」ことや、「再び家族として一緒に集まること」は重要だと思っていなかったけれど、真摯な反省とそれを明確に表している言動を長年にわたってみた結果、こういう状況になったそうです。
彼女は、赦してはいますが、加害をきちんと覚えているし、加害が再び起こらないための対策をきちんと取っています
「反省したから、二度と同じ加害を行わないだろう」という考えは、新たな被害者を生むことにもつながりかねません
ナチスの一員で残虐な行為を行った人々も、普通の良い父親や息子でもあり、悪魔のような人々ではありません。驚くほど普通の人々です。
私たち一人一人が、善いことをする選択もできれば、状況によっては非常に悪いことをする可能性ももっているのだ、ということを覚えておくことは重要です。
悪魔のようなひと(=特別なひと)が、悪魔のようなことをするのではなく、ごく普通のひとが悪魔のようなひどいことを行うのは、あるい程度生きていれば見てきたことだと思います。
人間には、理性があり、善いことを選択して行う訓練が必要であり、悪いことを選択して行ったのであれば、それに相応した責任を取る必要があります。
自分の罪に向き合う機会を与えなければ、次にはもっと悪いことを行う可能性が高くなるのは明らかでしょう。
それは、本人にとってもよくないし、社会全体にとっても悪い結果をもたらします。

以前、既に亡くなったユダヤ教のラビのJonathan Sack(ジョナサン・サック)さんが書いていた教典の解釈(キリスト教も他の主要宗教も同じですが、同じ教典でも解釈はいくつもあるのが普通です)の一つは、覚えている限りでは、以下のような話だったと思います。

父親がとても可愛がっていた一番幼い弟のジョゼフに嫉妬した兄たちが結束して弟を陥れ殺そうとしたものの、兄たちの一人、ルーベンがそれに耐え切れず反対し、時間をかせいで、どうにかジョゼフを助ける策を考えている間に、ジョゼフはたまたま通りかかった隣国からの商人たちにさらわれ、隣国で奴隷となります。
数十年たった後、ジョゼフは隣国の王のもとで、無実の罪で牢獄に入れられたこともあるものの、王宮で出世を果たします。
その後、ジョゼフは兄たちを自分が住んでいる隣国に呼び寄せ、兄たちが自分たちの罪を認め、後悔している発言をしているのを目の前でみます。(ジョゼフの兄たちは、ジョゼフは自分たちの言語が理解できないだろうと思っていて自由に話していたけれど、ジョゼフは隣国の言語と共に兄たちが話す言語も理解できていた)
その後、ジョゼフは、兄たちの一人の荷物の中に金杯を隠しいれ、盗みを行った罪を着せ、この罪をつぐないたいのであれば、家にいる一番若い弟を連れてきて奴隷にするように言います。
これは、ジョゼフが経験したことなのですが、兄たちは真に反省していたので、一番上の兄が、一番下の弟の代わりに、自分が奴隷になることを申し出ます。

これが、本当に反省したということである、とジョナサンさんは書いていました。

贖罪は、「自分の行ったことの罪を認める → その罪の告白 → 行動の変化(が続く)」で、実際に罪を認め、行動が持続的に変わって初めて、贖罪だといえる、としていました。
何に謝っているのかを曖昧にして、「赦し」を求める人々を信用する必要はありません。加害者が何を間違って行い、それがどのような影響を被害者に与えたのかを認め、自分が悪かったことを認め、供述し、その上で行動が持続的に変わっているのを確認する必要があります。

もちろん、私たち人間には、考えや行動を良いほうへ変える決定をし、それを持続し、未来を変えることは可能です。
それは、加害を行ったひとが責任をもって行うことであり、社会もそれをサポートする必要があります。
被害者には、加害が与えた影響(トラウマ等)に向き合う、扱うことが、場合によっては長期間にわたって必要となります。
これについては、被害者たちに必要なセラピーや経済的なサポートの資金プールに、加害者たちが給料の数パーセントを一定期間支払うように義務付けする、といったアイディアをみたこともあります
加害者に関わりたくない被害者がいるのも当然で、こういった資金プール(加害者から直接被害者にお金が支払われるわけではない)があるのも、被害者をサポートするためには、いいのではないかと感じました。

被害者の回復への道のりは長いとしても、加害者がきちんと加害の責任を取る(正義が行われる)ことは、再度加害にあう可能性を減らし、少なくともこの加害についてのClosure(クロージャ―/(その章を)閉じる)にはなるでしょう。

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