史上最高のウィンブルドン

20XX年ウィンブルドン。この大会は開始から波乱の連続だった。
シード勢の内、4回戦まで残ったのはわずか2人。フェデラー、ナダルといった強豪も2週目にすら残ることができなかった。
決勝に残ったのは第1シードのノバク・ジョコビッチとノーシードのマリン・チリッチの2人。過去準優勝の実績があるが、チリッチの決勝進出には誰もが驚いた。

この年のウィンブルドンも例年通り雨に悩まされた。依然としてセンターコートと第1コート以外には屋根が付いておらず、主催者は雨への対応に追われた。

チリッチは決勝前夜、この心地よい雨の匂いで遠い故郷の記憶を思い出した。自分の生まれた故郷の大自然、子供達の笑顔、小鳥のさえずり。世界中の楽園がそこにあった。
チリッチは幼少期をこう回想する。
"ユーゴスラビアにいた頃はまだ本格的にテニスをやっていなかった、自然で遊ぶのが好きだったからね。テニスは従兄弟に誘われてボールの打ち合いをしていたくらいかな"

その平穏な日常が突如終わりを迎える。そう、スルプスカ共和国軍によるスレブレニツァの虐殺の始まりである。

軍は民衆を扇動した。町に住むセルビア人は、私たちがクロアチア人だと分かると鉈を持ち襲いかかった。昨日まで普通の隣人同士として、人同士として接していたのに。
ユーゴスラビアはこの世の楽園から地獄へと変貌を遂げた。

ある日、チリッチの目の前で従兄弟のタニアはレイプされた。

"もう沢山だ!"

チリッチは叫び、怒りを爆発させ、テニスラケットを握り、その男を殴打した。何度も何度も。彼は7歳にして人を殺した、戦火のユーゴスラビアではそれが生きるすべだった。
彼の足元に、タニアをレイプした男のドッグタグが落ちた。そこに書いていた名前はゴラン。そう、ジョコビッチの叔父の名である。

彼はこの日を忘れたことは一度もない。この事件をきっかけに、彼はタニアら親族とともにドイツへ移住した。
テニスの試合中、いつもこのことが頭をよぎっていた。自分がテニスをすることで、彼女にあの悪夢を思い出させてしまうのだろうか。
タニアはチリッチを心配させないように常に明るく振る舞っていたが、自分をテニスの世界に引き連れた彼女のことを思うと、重要な場面では常に強いプレッシャーに晒された。

チリッチは彼女のために変わらなければならなかった。そして、新たにコーチとしてイワン・レンドルを迎えた。
レンドルは現役時代マシーンと称され、試合中は感情を表に出さず、躊躇いもなく相手の顔面に向けてバックハンドを振り抜くなど、まさに今のチリッチに必要な要素を兼ね備えた選手であった。
レンドルはチリッチのプレースタイルとメンタリティを一から作り直し、彼に強烈なサーブに加え巧みなストロークと強い心を与えた。

一方のジョコビッチは明らかに衰えていた。すでに全盛期から10年が経過し、得意のストロークもミスが多くなり、怪我も増えた。
とはいえ、今年の全豪オープン優勝、全仏オープンベスト4と結果を残し、今でも世界No.1の選手であることに誰も疑いを持たなかった。

決勝当日の天気は曇り。薄暗い中、男子シングルス決勝が始まった。

試合は大方の予想を裏切り、チリッチが推す展開となった。1stセットを6-2であっさり奪取、2ndセットもタイブレークの末勝ち取り、王者ジョコビッチを追い込んだ。

この状況でさえ、ジョコビッチの顔はいつも通りだった。その眼球は光さえ逃れられないブラックホールのように暗く、深い闇を感じる。
その瞳の奥からはなんの感情も読み取れない、直視すると吸い込まれてしまいそうだ。

以前のチリッチならば、ここから崩れてしまったかもしれない。彼は肝心な場面で体が硬くなり、思い通りのプレーができなくなると、よく泣いていた。しかし、今のチリッチは違う。
レンドルはいつも試合前にチリッチにこう囁いた。

"いいかムルニャ、人は死ぬ。それはテニスの試合であっても"

レンドルは幼少期、祖国チェコスロバキアにおいてソビエト連邦の弾圧を受けて育った。まさにクロアチアがセルビアに弾圧されていた、チリッチと同じ境遇の持ち主だった。
この言葉に強い刺激を受け、チリッチは段々と昔の泣き虫ではなくなっていた。戦場で涙を見せることは死を意味する。

3rdセットも先にブレークしたのはチリッチだった。流石のジョコビッチもこれには動揺した。彼は得意のジョーカープレーを始めた。
観客に対する恫喝、ボールボーイの目の前でラケットを破壊。そして審判台に向けてボールを打ち込んだ。
この行為にチリッチは我慢ならなかった。彼は珍しく激昂し、その目には涙が薄らと浮かんでいた。
こうしてジョコビッチが望んだ展開となった。チリッチは明らかに動揺し、あっさりとブレークバックを許し、セットカウント4-4。このセットは振り出しに戻った。
しかし、ここでジョコビッチにとって予想外の出来事が起こる。

"Boooooo!!!"

会場からジョコビッチに向けて激しいブーイングが起きた。

ジョコビッチは観客の反応に驚き、叫んだ。
"どうしていつも俺だけ、俺だけ差別されるんだ。おかしいじゃないか。みんな勝つためにテニスをしているんだろ?俺はゲンチッチからそう教わった"

ジョコビッチは常に思っていた。自分は史上最強のテニスプレーヤーであり、全世界のリスペクトを受けるべきだ。
誇り高きセルビアの血を受け継ぐ私が、世界の頂点に立つ私が、なぜこのようなブーイングを受けなければならないのか。

彼のモチベーションは怒りだ。自らに向けられた銃口の数だけ強くなる。それはユーゴスラビア紛争で学んだ技術だった。自分は殺される側でなく、殺す側の人間である。
それが戦争で染み付いた習性であった。実際、全盛期の彼はブーイング受ければ受けるほど強くなった。しかし、衰えきった体はついにブーイングに耐えられなくなってしまった。
ジョコビッチが初めて人間の心を見せた。強がっていても、本当は応援が欲しかったのだ。

ジョコビッチは初めて世界No.1になってから10年が経過していたが、結局最後まで自分の勘違いに気づくことはなかった。勝つことに関しては一級品かもしれない。
だが、彼の30年に渡るテニス人生において、ついに観客の心を掴むことは1度もなかった。そう、彼はいつもコート上で孤独だった。

チリッチは1人ではない、ウィンブルドンの観客、世界中のテニスファン、そして過去の偉大なテニスプレーヤーたち。皆チリッチの背中を押した。

次のゲーム、ジョコビッチは落とした。初めて彼は殺される側になったのだ。

こうしてチリッチにチャンピオンシップポイントが訪れた。40-15、チャンスは2回。チリッチがサーブのモーションを始める。
その姿にはマリオ・アンチッチ、ゴラン・イワニセビッチ、イボ・カロビッチらクロアチアの偉大なビッグサーバーの姿が重なって見えた。
そして、時速140マイルを超える1stサーブがセンターに入った。


ジョコビッチは死んだ。自らの犯した罪により、彼の体は砕け散ってしまったのだ。
クロアチア人およびボスニア人の無念の思いが塊となり、重い十字架となって彼を押しつぶした。

その瞬間、曇った空は晴れ渡り、光がチリッチを照らした。

"やっと終わった"

ウィンブルドンの観客から絶え間ない拍手と歓声が沸き起こった。ロジャー・フェデラーが2017年ウィンブルドンで優勝した時よりも、遥かに大きく、マレーマウンドは地鳴りを上げ、激しく共鳴した。

"ニューチャンピオン、マリン・チリッチ!"
このコールとともにチリッチは安堵の表情を浮かべた。チリッチがユーゴスラビア紛争後、初めて見せた笑顔だった。

この試合を目撃していた当時世界ランキング12位で、当大会ベスト4のケイ・ニシコリはこう語る。
"チリッチとは2014年全米オープンの決勝で戦ったし、彼の強さは知っているつもりだった。けど、あの時のチリッチのプレーはなんというか、テニスという競技の頂点、終わりを見てしまったように思えた。
あれを目撃できた僕は幸運だと思う。だって、神の再臨をこの目でみたのですから。"

歴史上最も激しいウィンブルドンの戦いが終了した。この試合で観測された会場の騒音は140デシベルにも達し、ギネス世界記録に認定された。


チリッチは優勝後のインタビューでこう語る。
"私はつい最近こんな夢を見た。祖国ユーゴスラビアの地で、クロアチア人とセルビア人、ボスニア人の子供たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢です。
いつの日か、私たちが同じユーゴスラビア人として、ともに手を取り困難を乗り越える時代が来るでしょう。"

鳴り止まない歓声の中、チリッチは芝生に散らばるジョコビッチの破片を踏みつけながら、会場を後にした。

残念ながらチリッチの語った夢は、魂の叫びは、現在においても叶っていない。つい先日、クロアチアの青年将校がセルビアの小学校教諭に撲殺されるという事件があった。
セルビア人とクロアチア人、ボスニア人の対立は終わらない。今もなお激しい民族対立が続いている。

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