日記/ノウハウ
日記は続く内に続かせろってね!
4/3ー
本邦の煽りタイトルで気軽に地獄とか天国とか書かれがちだけど、海外作品見ていると地獄や天国についてそれこそ食傷気味になるほどに考察と想像を重ねて作られた作品が多いのでそれと比較すると、なんだか人の人生に気軽に地獄や天国と表現していることの軽さが鼻につくなぁと考えていた
もちろん、自分の苦しみを表すのに地獄を使っていいと思うんだけど、自分の世界観や信仰に依拠しない形容詞だけの言葉を使って伝える体験というのはその人の体験の価値を損ねないか?ということを考えてしまう。
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次回轍を踏まないように。
デザインやるのにそんな人数や日数いる?と今まで思ってたんですが、めちゃくちゃ要りますねなるほど~ということを今実感している。難しいのは利益を出すためにデザイン業だけ独立すると、それだけ現場の意見が聞きづらいんだな・・・ということもなんとなくわかってしまった。
締め切りぎりぎりの時の方になって、まじでよい意見とか出てくることがあり、そっちに変えた方がいいもの作れるということざらにあるよね。
限られた時間内でいいものを作ろうとすると、実力主義になりがちなの「あー・・・」とは思う。
だから、ノウハウの共有って大事すね。
デザインを頼む側に大切なこと:いれる情報はワードに予めまとめておくとよい。情報が変更になるなら予め伝える。指事は言葉だけではなく、図など使って具体的に。できればどういう方向性・色にしてほしいとかを画像とか本とかだす。コンセプト段階ならあらゆるものを使って示す。
デザイナーに大切なこと:意思疎通を小まめにとらないと、依頼者との間で情報のやりとりがかけてた時に苦しむのはこちら。ノウハウは共有しよう。スケジュールに余裕をもとう。やばいときはヘルプを頼もう。報告も小まめにしよう。
リテイクの回数共有は双方にとって大切。まじ。
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免許と資格と職業の軽んじられについて。(マルクス的労働観ともいうかもしれない)
本邦でなんとなく、免許と資格がごっちゃにされてない?
免許は資格含むけど資格は免許を含まないという理解をしている。
他人の生命身体財産についての責任を負って業務ができるというのが免許で、自分にはこの能力がありますよーと証明するのが資格ですよね?
ケア労働、エッセンシャルワーカーが軽んじられがちなの、ワーカーの免許が資格と同等に見られている(社会的構造により見くだされている)のも一因なのかなあとふと。
”誰でもできる労働”(注意のポーズ)だとしても、それに責任を負う/負えるというのが大きな違いじゃないですか。
まあ、ちょっと嫌なのがこれはあくまで仕事/労働の話であるというやつ。運転免許でいうなら、自宅の敷地内位ならば免許がなくても運転していいよとかあるじゃないですか。
免許は国家/行政が交付するものだし、資格は団体が授与するものなので、一般人が知識の秘匿化しなくてよくない?とは思うけど、それは権威ある所が確かなコンテンツをネットに流せることができる国家じゃないと成り立たないんだろうな・・・(例:米国大学の講義ネット配信、ITスクールの無料受講)
ただ、収入や生活の格差による情報の入り方の違いまじでえぐいので、個人の実力や収入によらず確かな情報が手に入る手段まじで必要だと思うんだけどな。
最終的には、責任と判断を下す人に渡繋げるためにも、色んな人が入門の知識くらいもってたほうがよくない?
(ところで知識と身分が結びつくと科挙の例がありまして・・・)
自分はNHKを楽しく興味深く観るタイプの人間なんだけど、NHKの料金を払いたくないと思う層の人達のことを考えてしまう。
たまに自分も観ててきついなと思う。
同じ年代の文化資本が上にいる人間が楽しそうに学んでるのをみて、あーーーとなる。
教育コンテンツの工夫だとかめっちゃすごいと思うんですが、しかしその工夫だけでは届かない層がいる訳で。
色んな人が学ぶことを楽しめる様なレプリゼテーションをしないと、反知性主義的なもの、ポピュリズム的なものに流れ込む人は止められないんですよ……
なぜ娯楽に"ポリコレ"が求められてるのかというと、こういうとこだと思う。
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