耳鼻科待合室暇物語

 鼻の調子があまりにも悪くって、耳鼻科にきています。2時間ぐらい待つみたいなので、なんとなく何か書こっかなーと思いました。待合室が親子連れの方が多く、ある母と娘の親子が「この耳鼻科に同姓同名の人がいるらしい」という話をしていて、その中で母親の方が娘に「同姓同名の人が、ここの病院に"かかってた"ということやな」と言っていたんですけど、小学生ぐらいの娘さんは病院に"かかる"って表現わかるんかな。案の定あんまりわかってない顔してた。こういう場面って自分が子どもの頃もたくさん経験してたと思うけど、どうやって切り返してたんだろう。今でもわからない言葉を聞いたら流しがちなので当時からそうだったかもしれん。思うんですけど、悪いくせほど中学とかから全く変わらず直せないですよね。自分もそういう節があって、悪いくせなので別にここでは言わないんですけど、変えようとする努力の力が絶望的に弱まってるんですよ。「まただー」みたいなことが重なって、「これ仕方ないんかな」みたいになってんの情けなすぎる。

 最近はずっとM-1の3回戦の動画を追ってます。すごい楽しいんですけどM-1ネタ動画を見ると本当に面白すぎて逆に自分のしていることのつまらなさが浮き彫りになってしまうようで非常に怖いです。そういうカッコいい舞台があって、ギューンってそこから離れて、離れて、自分がスケールのちっこいことやって満足して。そんな様子が客観的に見えてくるようで怖いんですよね。頑張らないかんなというか、いやお前それだったら無理だよ、みたいな声をかけてやりたくてたまらなくなります。


どうしようもないツイートすんな!

 そのー落ち込んでるわけじゃないんですよいっつも。悔しいなー嫌だなー最悪すぎるなーって感情が活力になってるんですよ基本。失恋してから成績上がるキモい学生生活送ってたりしてました。これ暗い話じゃないんすよマジで!第一、この話は、面白い。

 M-1の話に戻っていいですか?今のところ26日の祇園花月が途中で、そのほか2日間は見終えました。普段共演したり見たりしてる人が(特に祇園花月で)盛りだくさんで、ウケてて、爽快でした。「そうだよなー!面白いよなー!そう思ってんだよウチも!」っていう気持ち。ガンガンファンキービートさんが好きすぎて1回戦の動画をすでに4、5回見てて、昨日3回戦の動画を2回見たんですけど、多分今日も見ます。最初の尻上がりにキレていくところがあまりにも面白いので見てない人は見ないと損です。

 他にも色んな人が面白かったって書きたいんですけど、なんか「僭越ながら」の気持ちが勝ちすぎてあんまり書けないんですよね。でもさっきみたいにどうしても書いちゃったりもするんですけど、それは「書きたい」が「僭越ながら」をぶち破ったということです。しゃべるってなると名前を出すことに抵抗はないんですけど。多分文字にして公開するとその推した相手にアピールしていると自分でみなしてしまって嫌なんだと思います。自己中心的思考なのはわかってるんですけど、どうしてもこういった考えは抜けません。ちなみにこれは中学の時とかは無かった後天的な思考です。ほな直しなはれ!

 みたいな感じです。耳鼻科の待合室からでした。なんか2時間ぐらいなら全然待てるようになったな。これって電車乗ってる時とかも思います。やることとかやりたいことがたくさんあるからか?んー、諦めがつきやすくなったからか。待ち時間って、諦めなんですよ。特に電車とかだとダイヤがキッチリしてるので、拘束時間が確定してるんですけど、それに諦めがついてるかどうか。小さい頃おばあちゃん家に電車で行ってたんですが、その時は諦めがついてなかったので電車に乗ってる時間を永遠のように感じてたんですけど、今、そのおばあちゃん家は通ってる大学よりも近いことに気づいてかなりビックリしたんですよ。大学入ってしばらくしたら諦めがついたからほんとうに何の苦もなくなってしまったみたいです。いいですか、これは待てる大人の話なのではなくって、諦めてしまった子どもの話なんです。

(2022.10.31)

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