『田宮のイメエジ』(日比野啓)『中橋公館』(黒澤世莉)


『田宮のイメエジ』のわかりにくさについて

日比野啓

 戦後間もなく『田宮のイメエジ』を第二次『劇作』第五号(一九四七年十月)に発表した——翌年十二月には、俳優座第四回創作劇研究会による上演のため演出も行った——のを最後に、劇作の筆を執らなくなった川口一郎(一九〇〇〜一九七一)について、何かしらのことを言うのは難しい。(第一次)『劇作』第二号(一九三二年四月)に掲載された処女作『二十六番館』が、同年九月に築地座第六回公演としてすでに戯曲を高く評価していた岸田國士の演出によって上演され、正宗白鳥と辰野隆に激賞されるという鮮烈なデヴューを飾ったものの、その後は寡作で、一九七一年七月に七十一歳で亡くなるまで戯曲はわずか八篇しかないからだ。しかも『二十六番館』『島』をのぞく六篇は一幕物で、さらにそのうち五篇は一場しかない。岸田國士の弟子筋にあたる『劇作』同人たちは、田中千禾夫や小山祐士のような多作派と、内村直也や伊賀山昌三のような多芸多才ゆえにごく僅かの戯曲しか残さなかった人々とに分かれるが、川口の作品の少なさはその中でも目立つ。
 内村はラジオドラマや初期のテレビドラマに力を発揮したほか、演劇についての理論書・啓蒙書を多く書いたし、伊賀山は戦中に白水社を辞して故郷・能代に近い秋田市に疎開し、設立されたばかりの国策会社・帝国石油の秋田鉱業所に奉職したから、それぞれ戯曲集が一冊しかないのも理解できるが、川口一郎はラジオドラマすら数篇だという(現在は散逸して正確な数は不明)。あえていえば川口の本業は演出家というべきかもしれず、『二十六番館』の稽古も岸田が多忙で不在のときは川口が立ち会ったというし、訳者の辰野隆からわざわざ指名されてその翌月(一九三二年十月)築地座第八回公演でエドモンド・セエ『旧友』を演出して以来、築地座や文学座で数多く演出をこなした。もっとも有名なものは、戦後になってからの文学座『ママの貯金』(一九四九年十一月、川口一郎・倉橋健訳) や、スタンリーを演じた北村和夫が一躍有名になった同じく文学座『欲望という名の電車』(一九五三年三月)であり、また一巻本『川口一郎戯曲全集』所収「年譜」にも記載されていない獅子文六作『信子』(一九五〇年九月・伊賀山昌三脚色)も含め、戦後の新生新派でも三度演出をおこなっている。とはいえ、総演出数は二十数本と、職業演出家に比べればものの数ではない。
 『川口一郎戯曲全集』「あとがき」に「烏森の花柳界の若だんなとして生まれた川口が、ニューヨークで新しい演劇の勉強をしたことによって、彼の人生のコースが決定した」という至言を書いたのが誰なのか、『川口一郎戯曲全集』刊行会・旧『劇作』同人とあって小山祐士以下八名の連名になっているので不明だが、おそらくコロンビア大学演劇科で机を並べた菅原卓の六つ年下の実弟であり、川口からは九つ年下の内村直也だったのではないか。

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