矢代静一『夜明けに消えた』、唐十郎『腰巻お仙-振袖火事の巻』、山元清多『海賊』、唐十郎『少女仮面』

『夜明けに消えた』(担当:川口典成)

◎受洗直前前の作品『夜明けに消えた』(「新劇」1968年9月号発表)
※矢代静一氏の長女、女優の矢代朝子さんインタビューより抜粋https://www.christiantoday.co.jp/articles/21098/20160609/interview-yashiro-asako.htm

―42歳で受洗された静一氏ですが、洗礼式の代父は遠藤周作氏が務められたのですね。

矢代家は日蓮宗でしたが、銀座で生まれた父は場所柄、西洋文化に接することも多かったようです。クリスマスには学生のサークル活動みたいなところで讃美歌を歌ったりしていたらしいです。戦前はそれが唯一、女の子と交流できる場でそちらの興味の讃美歌だったのでしょう。演劇の道に進んだ父は、フランス文学に憧れていました。そのフランス文学を理解するのに、キリスト教の知識が必要不可欠でした。そこで劇作家の加藤道夫(1918~53)さんの誘いもあり、聖書やカトリックの勉強を始めました。けれども、その加藤さんがカトリックでは最大の罪とされる自殺の道を選んで突然亡くなってしまいました。まだ20代だった父は大変なショックを受けました。しかし、加藤さんの告別式で、遠藤周作さんと出会ったのです。遠藤周作さんは、信仰においても、作家としても、まさに父の兄貴分でした。遠藤さんは、個人的にキリスト教芸術センターという文学者や芸術家が勉強できる場を作ったり、クリスチャン作家としての自覚が強く、父も大きな影響を受けました。

―演劇への関心から、キリスト教の学びを始めたのですね。

最初は文学者として、作品を理解するために聖書を手にしたようです。特に欧米の戯曲は、聖書を理解しているかどうかで、解釈の深さが変わってきます。結局のところ、「神」について語っていると分かるか、分からないかで解釈が全く違うものになります。父だけでなく、父の時代の文学者は聖書をよく読んでいる人が多くいました。よく知られているところで言えば、イスカリオテのユダを題材にした太宰治先生の『駆け込み訴え』がありますが、そうした尊敬する先輩作家への憧れも、キリスト教へ関心を抱く大きなきっかけになっていたと思います。

―受洗後第一号となった本作(天一坊十六番』)には、静一氏のどのような思いが表れているのでしょう。

今回あらためて稽古を拝見して、「神様が私を見つけてくれた」という天一坊のセリフに、クリスチャンになった父の思いが一番表れているように感じました。自分で神様を見つけたのではない。神様が自分を選んでくれた、という父のプチ満足感がこの作品の根底に流れてるのかなと思います。前作の『夜明けに消えた』も、原始キリスト教が弾圧されているエルサレムを舞台にした宗教色の濃い戯曲でしたが、そこからは信仰に対する強い迷いが伝わってきます。信仰の道に進むかどうか最後の決着をつけるために書いた作品で、筆を進めるうちに神を見いだしてしまったので、まさに葛藤の固まりのような作品でした。それと比較すると本作は、信仰への確信を持った人らしい、余裕のある作品かもしれません。前作が、迷える小羊のイメージだとすれば、本作は、羊飼いの懐に飛び込んで「僕は神様に好かれてるんだ」とルンルン気分の小羊、といったところでしょうか。

◎宗教学者田川建三による遠藤周作文学批判(田川建三「弱者の論理」『批判的主体の形成』)

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