寄り添う(2023年6月23日)

帰り際に生徒の訃報を聞いた。

自分にとってその生徒は「知らない人」だ。今日の訃報で名前を初めて知った。顔は当然知らない。違う棟にいる子どもだから、会うはずがないのだ。

人の死を前にしていながらも落ち着いていた。亡くなった子のことを一つも知らないからだ。訃報を聞いても、「それは残念ですね」などと本当に思っているのか思っていないのかわからない言葉を発するのがせいぜいなところだった。

あの子の死は、私にとっては一つのニュースでしかないのだろう。「今日そんなことがあったのか」と、パラパラと新聞のページをめくっている感覚。(文面にすると、結構ひどいことを言っている気がする。)

でも、こうしてnoteを書いているこの瞬間も、あの子の死を心の底から嘆き悲しんでいる人がいる。あまりにも早すぎる別れ。夏休みにどこに行く予定だったのだろう。大人になったらどんな仕事について、どんな友だちと出会っていたのだろう。もうそれは叶わないのだ。

帰り道に髪を切るために途中駅で降りる。美容師とくだらない話で時間をつぶす。そんなことをしている間も誰かがあの子の死に直面している。あの子の家族はいまどうしているのだろう。

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10代の男の子が医療ミスで命を落としたらしい。

人が死ぬ。ニュースになる。世間がすこーし注目する。忘れられる。世界ってこんなもんだ。「だからこの世界は最悪」とかそういう話ではない。こんなもんなんだ。自分だって「ひどい話だ」とは思うが、結局はこの程度の感情で終わってしまう。

でもこの世界のどこかに、彼の死に対して本気で悲しんで、怒って、泣いて、絶望している人がいる。いるはず。

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逆もまた然り。

1年前、祖母が死んだ。突然の死。「老人っぽくはあるけど、実は意外と元気なんだよね」なんて言いながら、息を切らしてカートを押していた。写真も撮った。その1か月後に死んだ。

祖母の最期に立ち会えた。もしかしたら苦しかったかもしれないが、はたから見るとあまり苦しまずに人生を終えることができたのかなとも見えた。

家に帰った。寝る前にTwitterを見た。誰も祖母の死を嘆いていない。いつもどおりの光景。わざと炎上を狙う政治家、明日のライブの告知、あまり伸びていないネタツイ。なんで世界は祖母の死を悲しんでいないのだろう。つい数時間前に人が死んだというのに、あまりにも「いつもどおり」すぎる。

世界は私の悲しみに無関心だ。こうして自分が祖母の死を悲しんでいる間も、どこかで最悪の飲み会が開催されている。どこかでプロポーズがおこなわれている。子どもを寝かしつけている。眠い目をこすりながら残業をしている。世界なんてそんなもんだ。

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「だからこの世界が憎い」なんてことは全く思わない。それでいいと思っているしむしろ健全だ。人がひとり死んだだけで全世界が嘆き悲しんでいたらきりがない。
(この話を「いまもアフリカでは」とか、そういう方向に広げるつもりはない)

だからこそ今日私は、あの子の死をほんの少し悲しもうと思う。残された人たちに寄り添おうと思う。あなたは一人ではない。この感情があなたに届くことはないだろうが、私はあなたと共にいる。これが、あの子の訃報を聞いた私にできること。そんな気がするのである。


去年のあの雪の日の自分にも届けばいいと思う。


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