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手に持つボールが落ちる【7/31】

・休みが取れたので岩波ホールに行った。(7/28)


・午前中の仕事の疲れがあって、途中寝てしまった。そもそもブルース・チャトウィンの予習をせずに行ったのが良くなかった。

・全く知らない人の伝記(ヘルツォークは伝記ではないと言っていたが)を見るわけだから、多少は退屈ではあった。

・とは言えの作品だった。「死に場所を探している」という言葉は手垢に塗れているが、チャトウィンが発するとくだらない文句にはならない。彼の歩いた旅はあまりにも幅広く豊か。病が発覚してからも続けた旅は、本当に「死に場所探し」だったのではないか。

・岩波ホールは29日で閉館した。私が初めて訪れたのは今年の4月。あのときは「メイド・イン・バングラデシュ」を放映していた。こんなに神保町に通っていたのに、閉館を発表してから知るなんて残念すぎる。


・野呂邦暢と同じアングルで神保町を撮った

・東陽堂には大量の仏教書が置かれている。どうも敷居が高くて入りづらい。かつて、「岩波講座 東洋思想」のイスラームの章を買った気がする。なんでイスラームなんだ。

・この本は責任編集に井筒俊彦が入っている。なるほど、そりゃあイスラームで二冊でるし、東洋思想なのにユダヤがあるんだと思った。ちなみに数十年前の本だから、古本としての価値はほぼない。定価の半額くらいで売られているし、メルカリにもたくさんある。

・最近は難しい本を読めなくなってしまった。正確にいうと「読む気力が生まれなくなった」。こんな本を読んで何のためになるのだろう、という、私が忌むべき最悪の状態に陥っているのだ。逆にインセンティブが働く本はたくさん読んでいる。岸本佐知子の「死ぬまでに行きたい海」はまさにそれ。エッセイには、人が何を考えているかを教えてくれる力がある。私は、自分以外の人間がどんなことを考えながら生きているのかに、とても興味があるのだろう。


・しばらく更新をサボっていたら、話したいことが溜まってしまった。

・「何かのために生きる」ことがいかに楽かということを最近考えている。私は今現在、目的もなく彷徨うように生きている。これは本当にしんどい。何か壁にぶち当たったとき、「まあ結局苦しむのは自分か」と思い、壁から逃げることが容易になる。しかし、何か(あるいは誰か)のために生きている人は、ここでふんばれる。

・「何かのために生きる」とは、決して最終到達地点ではない。正確に言うと「何かのために生きることが自分のために生きることに繋がる」ということ。生きる意味を一度別の壁に当てた上で、跳ね返ってきたボールを生きる糧にできる。この壁がない人は、常にボールを手に持ち続けることになる。ふとした瞬間にボールが手から離れてしまっても、自力で拾いにいくしかない。

・私は今、この「何か」を探すために人生を彷徨っている。「今」と言ってもかれこれ4年くらい経っているのだが。「愛する妻と子どものため」「仕事のため」「社会貢献のため」「うまい酒を飲むため」「月に一度の旅を楽しむため」…。どれも私には魅力的に感じない。いや、魅力的に感じないというよりは、「〇〇のため」の「〇〇」がまだ存在しないだけなのかもしれない。


・早く自分の手にあるボールを打ちつけられる壁が欲しい。リフティングにはもう飽きてしまった。

・暫定で「夜に酒を飲みながら本を読む」ために生きるということにしておこう。

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