迷走する思考

noteを書こうと思ってPCを立ち上げ、「何を書こうか」と考えている時間が嫌いだ。

頭の中に渦巻く思考は山ほどあるのに、それを文字にしようとした瞬間にきれいさっぱりなくなっている。今日はマーク・フィッシャーの「再帰的無能感」について歩きながらぐるぐると考えていたのに、アウトプットができない。「考えがまとまっていないのにアウトプットはできない」とはよく聞く話だが、そのまとまらない考えをアウトプットしたいのだ。

同じような経験は、「書く」という作業だけでなく「話す」という作業のときにもある。上司との面談で「何か質問はありますか?」と聞かれて、質問ができたためしは一度もない。これは「質問がない」のではない。職場について気になることはいくらでもあるし、上司に対して普段から疑問に思うこともある。「どうしても言いづらいなあ」というような内容は当然話せないが、ほとんどが他愛もない内容だ。それでも、口からは「いやあ、特にないですかね」という言葉しかでてこない。

「何か質問はありますか」と言われた瞬間に、頭の中から考えがすべてなくなってしまうのだ。アウトプットを前提にして考えを整理しようとすると、硬直してしまう。

この現象は、いわば四色ボールペンを同時に出そうとするようなことなのだろう。話したいこと、気になることはたくさんあるが、口は一つしかない。すべての思考が指向性をもって外に飛び出そうとすることで、圧力がかかり膠着状態が生まれる。

だから、この圧力をいかににがすかがポイントだ。ボールペンから一つずつ色を取り出す作業。落ち着いて、話したいことを事前に選んでおく。この前、質問事項を先に紙に書いておいたら、ようやく一つだけ質問ができた。

話し上手、聞き上手と呼ばれる人は、これができるのだろう。では、書き上手になるには?


さて、ここまで書いて自分の理論に矛盾が生じてしまった。「気になることを先に紙に書いておけば良い」と言ってしまっては、それで「書く」ことが苦手、という課題が解決してしまう。しかしながら、実際はまったく「書く」ことへの抵抗は解消されていないのだ。自己撞着。

実は、「書く」ことの苦手意識はここにある。しばらく文章を書いていると、必ず自己撞着に陥ってしまう。これが怖くて書くことができない。「今からマーク・フィッシャーについて書こうと思ったが、どうせ書いているうちに自分の論理がめちゃくちゃになって消してしまうだろう」というネガティブな思考が、私を書くことから遠ざける。

今はとても気楽だ。なぜなら、「自己撞着」することを最初から自覚したうえで書いているから。

そう考えると、どんな文章を書いているときも、自己撞着することを諦めて書いてしまえばようのではないか?「私は〇〇だと思う。いや、そうすると××で矛盾が生じる。しかし、〇〇でしかこの事象は説明できない」…。思考の海を行ったり来たりした、混迷きわまる怪文書をこのnoteに解き放ってしまえば良いのだ。

ほら、今もこうしてこの記事の終わり方に迷走している。迷走しているのなら、そのまま終わりにしてしまえばよい。いずれ、この迷走が終わることを願って、書き続けるしかない。


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