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まさに「日本の役人」の鑑? 藤原不比等

橋本治の「権力の日本人」をまたまた読んでます。今回再読しようと思ったきっかけは、ミーハーに「光る君へ」を毎週見ていたら、「そういえば、『平安時代が平安だったのは、奈良時代の皇女の暴走に凝りて、それをきちんと藤原氏がコントロールするようになったから』だというような説明が、たしか同書にあったよな」と思いだし、「具体的にどういうことだったっけ」と思って読みだしたんですが、読んでる間に、藤原不比等って、まさに「日本の役人」の鑑だよなぁって思うに至ったのです。

不比等のなにが「日本の役人」の鑑なのか、結論から言うと、「最高権力者の意図をくみ取り、その意図がより円滑な形で実現されるような非凡なアイデアを立案・実施する能力」が極めて優れている、ということです。

不比等にとって「その意図をくみ取るべき最高権力者」とは誰だったのか。言うまでもなく、不比等の才能をいち早く認め登用した持統天皇でしょう。娘である阿閉内親王(後の元明天皇)の女房となっていたとみられる県犬養橘三千代が、皇親である美努王と離婚してまで不比等と結婚することを認めたことや、不比等が朝政に登場したのが689年であるのに、わずかその8年後の697年には不比等の娘宮子が文武天皇の夫人として迎えられていることからも伺えます(後述のとおり、これは後世の藤原摂関家のように不比等の側から「迎えさせた」というより、持統天皇側からオファーがあったように思います)。

では、次にその持統天皇の「くみ取られるべき意図」とは何だったのか。それは、持統天皇の天武天皇への愛であり(というより同じ天武天皇妃であり姉である太田皇女へのライバル心?)、その愛の具現化として、草壁皇子そしてその子である珂瑠皇子(文武天皇)へと皇位が継承されることでしょう。持統天皇が、天武天皇をいかに愛していたかについては、661年に姉である太田皇女が大海人皇子の娘大伯皇女を産んだ翌662年に草壁皇子を出産していることや(ライバル心の強い姉妹なのか、太田皇女はそのまた翌663年に大津皇子を産んでますが)、なによりも、天武天皇崩御のその年に大津皇子を冤罪で死罪としていることからも明らかです(珂瑠皇子の皇位継承のライバルとしては衆望が篤くハンサムだったらしい高市皇子の方が強力なライバルであったにもかかわらず、大津皇子だけを狙ったのは、姉太田皇子への「女」としてのライバル心以外には考えにくい)。

この、草壁皇子、珂瑠皇子、そして珂瑠皇子の子である首皇子(後の聖武天皇)への皇位継承に際して、不比等はどのような役割を果たしたのか。それを考える上で重要と思うのは、壬申の乱を経た朝廷において、群臣は天武天皇の遺児たち、特に人望が高かった高市皇子とその子供である長屋王に対する期待が高かったという朝廷の空気感を頭に置いておくことじゃないでしょうか(懐風藻の中でも696年に高市皇子死亡した後に開かれた皇位継承に関する御前会議で議論が紛糾したことが記されてます)。このような環境下で、持統天皇の思いを実現するための不比等の活躍は持統天皇が崩御した後に本格化します。

不比等は、まず702年の持統大上天皇(文武天皇への譲位後の位)の崩御に際して知太政官事という秀逸なアイデアを生み出す。知太政官事とは、太政大臣のようなポストではなく、左大臣以下の太政官で議論されることを掌握するように、という役割であり、天武天皇の遺児の一人忍壁皇子にその役割が与えられます。単に持統大上天皇崩御後に年若き文武天皇を補佐するという目的を果たすためだけであれば、天智天皇時の大友皇子や持統天皇時の高市皇子のように太政大臣というポストに誰か有力者を迎えればいいだけのはず。しかし、懐風藻に記される御前会議での様子のように文武天皇(及びその血統)の皇位継承について衆意が必ずしも一致しておらず、しかも持統大上天皇という絶対的権力者がこの世を去った状況下で、群臣から「将来の天皇候補」と目されるようなニュアンスを帯びるポストでもあった太政大臣に誰かを迎えるのではなく、ポストですらない「知太政官事」という役割を創設するというアイデアは、持統天皇の「遺志」を満たしつつ、朝廷の機能を維持するという絶妙なバランス感覚の「お見事」な一手です。

次に、文武天皇死亡後の707年の元明天皇即位時の「天智天皇の『不改の常典』」です。この「不改の常典」についてはいろいろと議論がされてきているということのようですが、「権力の日本人」での解釈によれば、「(勝手な要約)持統天皇は天智天皇の皇女、文武天皇は天智天皇の皇女の孫、このように天智天皇の血統を継ぐ者が皇位を引き継いでいくのが決まりなのだ」ということで、したがって「天智天皇の皇女である元明天皇が即位するのである」となるわけです。この「不改の常典」のより最も重要なポイントは、元明天皇即位の正当性について述べること以上に、天武天皇の遺児たち、特に衆望の厚かった高市皇子の遺児長屋王が皇位を継承する正当性を否定することにあって、表面上に述べられていることよりもその含意するところにより大きな意味があるというのは実に頭の良い人間が考えつくことだなぁと感心するのです。

さらに、この長屋王の人事処遇の見事さです。704年に正四位として朝政に華々しくデビューした長屋王ですが、709年の従三位下叙任に際しては参議に任ぜず非参議として朝政の実質には参加させないまま窓際扱いにし(この間708年に不比等は右大臣に昇任)、716年に不比等の娘光明子が首皇子(後の聖武天皇)の夫人となり、718年に優秀な次男房前を大納言に配置した後に長屋王を参議として朝政に参加させるという慎重さ。まったく無視もしない代わりに、決してスポットが当たらないように処遇する。ほんとにドラマのような見事さです。

不比等についての記述をネット等でちらほら読んでいると、娘の宮子と光明子をそれぞれ文武天皇、聖武天皇に贈ったことで、天皇の外戚としての立場を利用して権力を行使した藤原摂関政治の祖のような言われ方をすることがあるようですが、橋本治と同じく、わたしもそうは思わないですね。宮子は珂瑠皇子出産後、病気になり、玄昉の治療により病気が癒えるまで長く表には出てこなかったことから、平安時代の道長がそうしたように娘をチャンネルにして外孫である天皇に影響力を行使したとは思えないです。また、光明氏が首皇子の夫人となったのは、元正天皇治世下で聖武天皇即位前であり、こちらも外戚として権力を行使する余地はなかったように思います。宮子や光明氏が夫人として迎えられたのは、むしろ不比等の能力を高く評価していた持統天皇及び元明天皇側からアプローチがあったと考える方が自然なように思います。現に、元明天皇は首皇子に対して「光明子をくれぐれも大事にするように」と言ってますし。

このように見てくると、不比等は権謀術数に長けた政治家というよりも、自分を評価してくれる最高権力者の意思を実現するために奔走する極めて優秀な官僚といった方が近いように思う。養老律令の選定を行うなど法令実務に長けていると同時に(今でも中央官庁の中枢を占めているのは東大法学部を中心とする法学部出身者)、知太政官事や「不改の常典」のような既存のルールに添いながらもそれに縛られないアイデアを編み出す能力をもち、さらに人事政策をも通じて政策の安定的な実現を図る(今でも中央官庁における統制権の源泉は人事権)。うーむ、まさに「日本の役人」の王道を行くような人、というより、この不比等の在り方が、1300年という時を越えて今でも「日本の役人」の鑑となっていることに、深い感慨を覚える今日この頃なのです。

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