見出し画像

雪女

涙がほっぺで凍ってしまって、無かったことにできないくらい寒い明け方だった。僕はどこかの遠い雪山のてっぺんで、昇る朝日を背に立っていた。粉雪のようにはじけ、煌めきながら山の突風に散ってしまった彼女の残影を、虚な目で探していた。昨日の雪女の寿命は今日になるまでだったんだ。

俗世界に戻ってきた僕は、年末でごった返すマーケットに見向きもせず、築40年の借家に直帰した。山とは違い、空気が酷く厚く、重い下界。気圧に耐え街の人々が颯爽と歩けるのは、帰りを待つ人を想っているからなのだろう。氷のようなドアノブを回し、僕は砦に入る。台所の蛍光灯をつけ、薄暗い中湯を沸かす。ガスコンロの青白い炎は人魂のごとく揺れているが、世話を焼かれなくても肝はとっくに冷えている。安心なんていうものは砦には存在しない。それでも、インスタントの味噌汁が入った椀を手で包み込んだら、刺すような指先の痛みは和らぎ、恒温動物らしき血色が戻ってきた。(数年前、凍傷で失った小指は、今でもそこにあるような感覚はあるのに、実存しなくて、その証拠に僕の血流は小指の付け根でゆるりと戻ってくる。)

らんまん硝子の窓は隙間風を呼ぶ。夜も更け、一切の原子運動は止まり、時間までもが眠りに溶けた。そんな中、冷たい何かが畳を這って、布団に横たわっていた僕の頬を滑り上がってきた。瞼を閉じたまま、僕は一つ深呼吸をして、それを体の中でいっぱいに満たした。肺は氷結し、まもなく全ての感覚が麻痺した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?