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金沢へ!39年ぶりにぶーちゃんに会う!

勝手なみちろうの法要のため福井県に行くようになって2年ほど。北陸新幹線もすっかりおなじみになったが、途中、金沢では必ず一泊する。金沢と仙台はスターリン時代の思い出がいっぱいだからだ。金沢での思い出の大半は、みんなの寝床を提供してくれたロック喫茶Black and Blueのぶーちゃんに纏わるものだった。

今年4月、例によってみちろうの三回忌のギグ、「糞爆三回忌」前夜、金沢に滞在中、ひょんなことでBlack and Blueのあった場所から徒歩1分のところにある、ジャズとカレーの店JO-HOUSEのモカさんから連絡をもらい、夜、急遽話を聞きに行った。実はその日の昼、Black and Blueの跡地と思しき場所の同定と、そこから徒歩数分のスターリンがライブをやった「小立野地下広場」の跡地を発見していたオレはモカさんからいろいろ詳しい事情を伺うことができた。

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金沢・小立野のビルの地下にある、ライブバー、etc.link。オレの記憶にある小立野地下広場と全く同じ作りだが、実は小立野地下広場はこの場所ではなく、ビルの隣の区画だったらしい。店長さんと記念撮影。

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夜、JO-HOUSEでモカさんと。JO-HOUSEも小立野地下広場もモカさんの義理のお父さんの経営で、当時の話をよく聞いているとのこと。小立野地下広場の場所もBlack and Blueの場所も昼の探検結果は間違えていて、正しい場所はこの時モカさんに教えてもらった。

モカさんから教わったのは小立野地下広場とBlack and Blueの場所や歴史だけではない。めんたんぴん→コクシネルと日本のロックの歴史で重要な位置にある池田洋一郎さんを通じてぶーちゃんに連絡が取れるかもしれないと言うのだ!

それから半年、阿佐ヶ谷のギャラリー白線でのオレの個展が9月17日に開幕。その翌日、9月18日。なんと、突然ぶーちゃんからメールが来た!まぁ、メールはいつも突然やって来る。前もってまもなくメールがやって来ますとは言わないけど、やっぱり39年ぶりだと突然だよな、、そもそも当時はメールなんてあるわけないし。

と、いう訳でそのメールをぶーちゃんの許しがでたのでここで公開するね!

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ジュンちゃん、

極々極々お久しぶりです。

昨日、金沢の池田洋一郎さんから連絡がありました。
今年のずいぶん前に、金沢のジョ―ハウスのモカさんから、ジュンちゃんが、小松へ出向いたらぶーちゃんに会いたい、と言っていたということを伝えてほしいと頼まれていたが、私の連絡先を見つけられず連絡できなかったと、連絡があったのです(ごめん、もってまわった書き方で)。

うれしくて、ただちに、しれーとジュンちゃんのtwitterをfollowしました。昨日からギャラリーでの個展が始まったんやね。とても絵を見たいけど東京までは行かない。

ジュンちゃんの書いた本、友達が貸してくれるというのでまだ買っていません。つまり、まだ読んでいません。ごめん。近々ゲットします。

ミチロウとベルリンや金沢や小松で会うたびに、ジュンちゃんどうしてるって聞いとってんよ。

私は、夫に先立たれた後、結局小松に戻ってしまい、なんかブレードランナー続編のホログラムのリアリティと、ベルリンの29年間を重ねてしまう心持ち。地味な生活というと、元々地味だからトートロジーになるけど、地味の意味合いが変わった、どちらかといえば、かなりつまらん地味日々です。でも元気。年相応。

あ、第七ギョーザ、店舗が移動したらしく、こっちへ帰ってきてからは行ったことない。

またね。連絡先を知ることができただけで、さりげなくうれしいよ。
晋太郎の死のことも聞かせて。

小松より
ぶ(野村志乃婦)

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そして、何度かのやり取りの後、オレが金沢を訪問することになった。

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10月13日15時半。金沢駅の改札の向こうに!この特異な動作はぶーちゃんに決まっている!髪が金色になってもすぐわかる!

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金沢駅前で記念撮影。

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新潮社から出ていた雑誌ゼロサン、1990年4月号。

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東西冷戦の象徴、ベルリンの壁が崩壊したのがその前年、1989年。

*この記事を読んでくれたぶーちゃんからいろいろ間違うとるやん!とのご指摘が入った。以下、訂正。

なぜかこの記事のためにベルリンを訪れたジャーナリスト刈部謙一さんにみちろうが同行。

→みちろうが同行したジャーナリストは畠山憲司さん。刈部さんは編集者だった。

突然、ぶーちゃんに泊めてくれ、と電話があったそうだ。無事みちろうはぶーちゃんと合流、ところがそこでみちろうが、あ!さっき電話した電話ボックスに財布とパスポートを入れたカバンを忘れて来た、と、もうホントにみちろうらしい大ポカをしでかした。もちろんそんなものは戻って来ず、パスポートの再発行まで数日、みちろうと畠山憲司さんはベルリンで足止め。その際に、パスポートの再交付を含めたテキパキとした行動に感動した畠山さんが帰国後、編集者の刈部さんにぶーちゃんを紹介したらしい。刈部さんは、ならば、とこの記事を含めてこの号の多くの現地取材のコーディネートと翻訳をぶーちゃんと夫君フランクが行うよう依頼したらしい。タイトルのクレジット、訳・協力の欄にあるのはぶーちゃんと夫君の本名だ。

この雑誌が日本のメディアで話題となり、それをきっかけにぶーちゃんたちはさまざまなメディアのヨーロッパでの取材のコーディネート、翻訳に活躍することになる。

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まずはBlack and Blueのあった場所へ。

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そこから徒歩2分、次は小立野地下広場跡地へ!バックのビルの右端地下が小立野地下広場だった。

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先述のJO-HOUSEもBlack and Blueと小立野地下広場の徒歩2分の間、石引商店街にある。

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JO-HOUSEで伝統のジャワカレーの夕食をいただきながら、話ははずむ。

石引から、夜の兼六園裏から広坂、香林坊まで小一時間散歩してもまだ話は尽きず、武蔵が辻のオレの宿のロビーで深夜まで話した。

2014年、夫君フランクが亡くなり段ボール14個にベルリンの思い出を詰めて帰国したこと、帰国後にはかつてBlack and Blueをいっしょに経営していたパートナー永田さんも亡くなったこと、それから、ドイツで、あるいは帰国時に見たミチロウのライブのこと、パティ・スミスのこと、ヴァーレインのダメさとリチャード・ヘルのカッコよさ、、

29年間、ぶーちゃんがベルリンで大活躍していた間、オレはあいかわらず燻っていた。

*ここにもぶーちゃんから指摘が!ここはとても微妙な言い回しなのでここでもぶーちゃんからの指摘の文面をそのまま貼り込みます。

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じゅんちゃん、私は「活躍」なんかしてません。フツーに生活してた。調べ物も人の話を聞くのも好きだったから、いい仕事に出会えてラッキーだったよ、確かに、そして、そんなベルリンでの生活を気に入ってた。ミチロウがかばんを忘れなかったらこの過去はなかったろうと思う。奇遇。

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それでも、その距離や時間を飛び越えて話は弾んだのだ。ぶーちゃんありがとうございました!仲介いただいたコクシネルの池田さん、JO-HOUSEのモカさん、ありがとうございます!

また近いうちに続きの話をしに金沢に伺います!

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