いわゆる神の存在証明--We doubt you, without you.(内在神)

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とりあえず我々が形而上学から自然学等まで知るために必要なものは、『原理』の第一巻に含まれているから、『原理』の第一巻を我々の知識にすることで充分だ。

【神の内在を我々が証明する】

まず、知解することにおいても最高なだけでなく、能力的にも最高で、完全さにおいても最高な者が存在している、ということを様々な観念のうちの一つとみなしているのは、精神である。また、そうした観念として実在する者がすべてにおいて必然的で永遠的であることを認めているのも、精神だ。となれば、もっぱらそのことだけから、最高に完全な者として存在している者が実在するということを、精神が結論するのは、平易であるにちがいない。では、いかなる原因からその観念を我々がもつのか。それを検討することのできるのは当然、我々である。そしてそこから確実になることは、我々にとって平易だ。すなわち、事物においてすべてが複合されるなり補完されるなりして完全だ、ということがもし真実でないとすれば、そうした事物からその観念が我々に植えつけられたということはありえないはずだ。以上のことが確実になるのである。

ところで何も生じないのは無だけからではない。原因から果たされるべきこと、そして原因が全体的になることがない場合もまた、何も生じない。となると我々自身という内部であれ、我々の外部であれ、どこかに、そうした観念や想像の原型が、完全たることのすべてを含んで、事物そのものとなっているはずなのだ。

諸々の完全性において最高だということを我々は観念としてもっている。このこと自体から、そのように完全なのは我々とは異なった何かであるということを、我々が結論するのは正しい。他方でまた、諸々の完全性がなお存在している、ということもここから帰結する。

さてこの論証は、不明瞭になることはない。というのも、持続する事物にとって自然なこと、すなわち時間の本性に、我々は留意するだけだからである。我々の存在するはずの時間が隣に続いていないだろう、ということさえ帰結しないかぎり、何らかの原因が第一に引き起こして我々にしたのと同じ力は我々には何もないのであって、このことを我々が知解するのは容易だ。また、そうした力の大きいものは自分自身を維持するところが比較的大きい、ということも、したがって、神が存在するということも、結局我々は知解する。

とはいえ、我々がいくら決定し把握しようと試みたり努めたりしても把握しきれない無限なものこそが神なのである。

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引用・参考文献

avec Burman: Descartes et Burman.(AT.V)(「ビュルマンとの対話」)
Praef.: Praefatio ad Lectorem.(AT.VII)(「読者への序言」)
PP.: Principia Philosophiae.(AT.VIII-i)(『哲学の原理』)
AT.: OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.

[HPML mix]

とりあえず我々が「形而上学から自然学等まで」「知るため」に「必要な」ものは、『原理』の「第一巻」に「含まれている」(avec Burman:AT.V,165.13-14)から、『原理』の「第一巻」を我々の「知識にすること」で「充分だ」(ibid.:AT.V,165.12-13)。

【神の内在を我々が証明する】

まず、「知解する」ことにおいても「最高」なだけでなく、「能力的」にも「最高で」、「完全」さにおいても「最高」な者が「存在している」、ということを「様々な観念のうちの一つ」と「みなしている」のは、精神である(PP.1§14:AT.VIII-i,10.05-07)。また、「そうした」観念として「実在」する者が「すべてにおいて必然的で永遠的」であることを「認めている」のも、精神だ(ibid.:AT.VIII-i,10.08&10-11)。となれば、「もっぱらそのことだけから」、「最高に完全な者」として「存在している」者が「実在する」ということを、精神が「結論する」のは、「平易で」あるにちがいない(ibid.:AT.VIII-i,10.17-18)。では、「いかなる原因からその」観念を「我々がもつ」のか(PP.1§18:AT.VIII-i,11.24-25)。それを「検討することのできる」のは「当然」、「我々」である(ibid.:AT.VIII-i,11.24-25)。そして「そこから確実に」なることは、「我々」にとって「平易だ」。すなわち、「事物」において「すべて」が「複合され」るなり補完されるなりして「完全だ」、ということが「もし」「真実で」「ない」とすれば、そうした事物から「その」観念が「我々に植えつけられた」ということは「ありえない」はずだ(ibid.:AT.VIII-i,11.26-28)。以上のことが確実になるのである。

ところで「何も生じない」のは「無だけからではない」(PP.1§18:AT.VIII-i,11.30)。「原因から」「果たされるべき」こと、「そして」原因が「全体的」になること(ibid.:AT.VIII-i,11.31-12.01)がない場合もまた、何も生じない。となると「我々自身」という「内部であれ、我々の外部であれ」、「どこかに」、そうした観念や想像の(ibid.:AT.VIII-i,12.02-03)原型が、「完全たること」の「すべてを」「含んで」、「事物そのもの」となっている(ibid.:AT.VIII-i,12.04)はずなのだ。

諸々の完全性において最高だということを「我々は」「観念」として「もっている」(PP.1§18:AT.VIII-i,12.05-06)。「このこと自体から」、そのように完全なのは「我々とは異なった」「何か」であるということを、「我々が結論する」のは「正しい」(ibid.:AT.VIII-i,12.06-07&08)。他方でまた、諸々の完全性が「なお」「存在している」、ということも「ここから」「帰結する」(ibid.:AT.VIII-i,12.08-09)。

さて「この論証」は、「不明瞭に」なることは「ない」(PP.1§21:AT.VIII-i,13.01)。というのも、「持続」する「事物」にとって自然なこと、「すなわち」「時間」の「本性」に、「我々は留意するだけ」だ(ibid.:AT.VIII-i,13.02-03)からである。「我々の存在する」はずの「時間」が「隣に続いて」い「ない」だろう、ということさえ「帰結し」(ibid.:AT.VIII-i,13.05-06)「ないかぎり」、「何らかの原因」が(ibid.:AT.VIII-i,13.06-07)「第一に引き起こして」「我々」にしたのと「同じ」(ibid.:AT.VIII-i,13.07)「力は」「我々には何もない」のであって、このことを「我々が知解する」のは「容易」だ(ibid.:AT.VIII-i,13.08-09)。また、そうした力の大きいものは「自分自身を維持する」ところが「比較的大きい」、ということも(ibid.:AT.VIII-i,13.11-12)、したがって、「神が存在するということ」も、「結局」我々は知解する(ibid.:AT.VIII-i,13.13)。

とはいえ、「我々が」いくら「決定し把握しようと試みたり努めたり」しても(Praef.:AT.VII,9.14)「把握しきれない無限なもの」こそが「神」なのである(ibid.:AT.VII,9.16-17)。

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初出:"What a cool believes"(blog),Sep.29,2006.

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