いわゆる神の存在証明--We doubt you, without you.(超越神)

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【神の超越実在を我々が証明する】

精神みずからのうちにもっている様々な観念のなかで、すべてをはるかに抜きんでた観念がある。また、精神が知得するところによれば、実在するのが必然的で永遠的だ、ということが含まれていたのは、最高に完全な者が存在しているという観念のなかである。となると、もっぱらそのことだけから、最高に完全な者として存在している者が実在するということを、精神が結論するのは平易であるにちがいない。さて、存在している者のうちで最高な者の観念を、神の観念として我々のなかにもっている我々が、その観念において暴くのは、広大で無際限たることである。そしてそこから確実になることは我々にとって平易だ。すなわち、もし神の実在することが事実でないとすれば、神からその観念が我々に植えつけられたということはありえないはずだ。以上のことが確実になるのである。
ところで自然という光によって最も知られているところによれば、比較的完全なものが、あまり完全でないものから引き起こされることはない。また、いかなる事物についてであれ、観念あるいは想像がありうるのは、我々のなかではないところに何らかの原型が実在するからである。

そうした観念にみられるのは、諸々の完全性において最高だということであって、このことを我々のうちに我々は発見しようがない。このこと自体から、完全なのがいつでも確実だったのは神なのだ、ということを我々が結論するのは正しい。他方でまた、諸々の完全性がなお存在している、ということもここから帰結するのであって、これはひじょうに明証的なことである。

さて、この論証が明証的でありうるのは、時間には相互に依存する部分がなく、またいつだって同時に実在するような部分もないからであって、そのようなことは時間として自然なこと、つまり時間の本性なのである。もし我々の存在しているのが今でない場合は、何らかの原因が、あたかも再び引き起こすかのように我々を維持する連続的な力をとおして、我々が我々自身を維持することになる。また、みずからとは異なっているにも拘わらず我々を維持するものは、そうした力がとても大きいか、もしくは、維持するにあたってむしろいかなる力も要しない、ということを我々は知解する。結局、我々が知解するのは、神の存在することである。

とはいえ、有限なものとして考察されるべきなのは我々の精神だということを、我々は単に思い出すだけだ。

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引用・参考文献

Praef.: Praefatio ad Lectorem.(AT.VII)(「読者への序言」)
PP.: Principia Philosophiae.(AT.VIII-i)(『哲学の原理』)
AT.: OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.

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【神の超越実在を我々が証明する】

精神「みずからのうちにもっている」様々な観念のなかで(PP.1§14:AT.VIII-i,10.05-06)、「すべてをはるかに抜きんでた」観念が「ある」(ibid.:AT.VIII-i,10.07-08)。また、精神が「知得する」ところによれば、「実在」するのが「必然的で永遠的」だ、ということが「含まれていた」のは、「最高に完全な」者が「存在している」という「観念」のなかである(ibid.:AT.VIII-i,10.15-17)。となると、「もっぱらそのことだけから」、「最高に完全な者」として「存在している」者が「実在する」ということを、精神が「結論する」のは「平易で」あるにちがいない(ibid.:AT.VIII-i,10.17-18)。さて、「存在している者」のうちで「最高」な者の「観念」を、「神」の観念として「我々のなかに」「もっている」「我々が」(PP.1§18:AT.VIII-i,11.23-24)、「その」観念において「暴く」のは、「広大で無際限たること」である(ibid.:AT.VIII-i,11.25-26)。そして「そこから確実に」なることは「我々」にとって「平易だ」。すなわち、「もし神の実在すること」が「事実で」「ない」とすれば、神から「その」観念が「我々に植えつけられた」ということは「ありえない」はずだ(ibid.:AT.VIII-i,11.26-27&28-29)。以上のことが確実になるのである。
ところで「自然」という「光」によって「最も知られている」ところによれば(PP.1§18:AT.VIII-i,11.29-30)、「比較的完全な」ものが、「あまり完全でない」ものから「引き起こされる」ことは「ない」(ibid.:AT.VIII-i,11.30-31&12.01)。「また」、「いかなる事物」についてであれ、「観念あるいは想像」が「ありうる」のは、「我々のなかで」は「ない」ところに(ibid.:AT.VIII-i,12.01-02)「何らかの原型が」(ibid.:AT.VIII-i,12.03-04)「実在する」(ibid.:AT.VIII-i,12.04-05)からである。

「そうした」観念にみられるのは、諸々の「完全性」において「最高」だということであって、このことを「我々のうちに」「我々は発見しようがない」(PP.1§18:AT.VIII-i,12.05&06)。「このこと自体から」、完全なのが「いつでも」「確実だった」のは「神」なのだ、ということを「我々が結論する」のは「正しい」(ibid.:AT.VIII-i,12.06-07&08)。他方でまた、諸々の完全性が「なお」「存在している」、ということも「ここから」「帰結する」のであって、これは「ひじょうに明証的な」ことである(ibid.:AT.VIII-i,12.08-09)。

さて、この論証が「明証的」でありうる(PP.1§21:AT.VIII-i,13.01-02)のは、時間には「相互に依存する」「部分」が「なく」、また「いつだって」「同時に実在する」ような部分も「ない」からであって、「そのような」ことは時間として自然なこと、つまり時間の本性なのである(ibid.:AT.VIII-i,13.03-04)。もし「我々の存在している」のが「今」で(ibid.:AT.VIII-i,13.05)「ない場合は」、「何らかの原因」が(ibid.:AT.VIII-i,13.06-07)、「あたかも再び引き起こすかのように」我々を「維持する」「連続的」な(ibid.:AT.VIII-i,13.08)力をとおして、「我々が我々自身を維持する」ことになる(ibid.:AT.VIII-i,13.09-10)。また、「みずからとは異なっている」にも拘わらず「我々を維持する」ものは、そうした「力」が「とても大きい」か(ibid.:AT.VIII-i,13.10-11)、「もしくは」、「維持」するにあたって「むしろ」「いかなる」力も「要しない」、ということを我々は知解する(ibid.:AT.VIII-i,13.12-13)。「結局」、我々が知解するのは、「神の存在すること」である(ibid.:AT.VIII-i,13.13)。

とはいえ、「有限なものとして考察されるべき」なのは「我々の精神だ」ということを、「我々は単に思い出すだけ」だ(Praef.:AT.VII,9.14-16)。

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初出:"What a cool believes"(blog),Sep.29,2006.

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