『フミヤ』が還暦間近で、『チェッカーズ』が40周年間近な件
曜日替わりジャンル、火曜日は音楽関連です。
先日、水曜日のファッションカテゴリーにて『バッファローチェックが稲葉浩志のモノマネ軍団とオタクに愛される件』を書いたので、『チェック』繋がりで。
また、50歳以下の読者にはピンと来ないんだろうなぁ(苦笑)
1月にNHK-BSで、チェッカーズの日本武道館ファイナルライブ(1992年12月28日)を観ましたが、その他にも最近あちこちの番組でフミヤが露出されていて、いろいろな思い出が頭をよぎりました。
フミヤこと藤井郁弥さん、今年の7月で還暦です。
もともと童顔で小柄でオシャレな方なので、59歳には見えません。
デビュー39周年ですが、フミヤのソロ活動をフィーチャーする際には『チェッカーズ』の話題に触れることが永らくタブーとされてきました。
ソロコンサートでも、フミヤ名義および実弟の尚之氏とのユニット “F-Blood” 名義の楽曲がメインとなり、チェッカーズの名曲は敢えて避けてきました。
それが、コロナ禍の2020年4月、自身の公式YouTubeチャネルにて『涙のリクエスト (1984年)』を弾き語りで披露!
翌月には『Song for USA (1986年)』も公開することに。
さらにNHK-BSの特番では、『ギザギザハートの子守唄』も披露…
これらについて本人はのちほど次のように語っています。
このコメントに噛みついたのが、往年のファン。
特に、高杢ファンからは『綺麗ごと言わないで!』みたいな批判の的になっています。
そもそもチェッカーズ解散の理由については、『フミヤと高杢の仲違い』、『藤井兄弟と高杢・鶴久の分裂』等が巷で語られていました。
綺麗な言葉で言えば、音楽性の違い、方向性のズレ。
もともと高杢とのツインボーカル、ないしは高杢がメインボーカルで活動していたものが、アイドルとしてTV出演してからは『フミヤ&バックコーラス兼ダンサー・バンド』みたいになって不服だったとか、ギャラの配分とか…。
2003年に高杢禎彦氏が『チェッカーズ〜もう全てを話そう〜』(巷でいう暴露本)を出版してフミヤを名指しで批判、ドラムの徳永さん(とくべえ)が亡くなった際の『お別れの会』に高杢と鶴久が呼ばれない等、決裂がドロ沼化…
その裏に、36曲ものチェッカーズの楽曲を作曲した芹澤廣明氏との確執があり、『恩人・芹澤師への義理を欠いたフミヤの言動に対して、高杢が失望し激怒した』というのが現在の定説。
確かに、アイドル・ポップスとしてのチェッカーズの成功は芹澤氏の作品のおかげでもあり、芹澤氏をないがしろにして翻意したフミヤを、高杢が激しく非難したことは擁護できます。
ただ、作詞作曲の才能もありセルフプロデュースで食っていける藤井兄弟と、楽器が弾けず作曲もできず、シンガーとしてもアクターとしても中途半端になってしまった高杢の焦りもあったことでしょう。
藤井兄弟と高杢・鶴久の和解は難しく、メンバーの1人が亡くなっている中でチェッカーズの完全再結成はあり得ませんが、作品に罪はありません。
ただ、高杢氏は40歳の頃にガンを患ってから歌うことに自信をなくしているとか、現在は土木関係の事業経営に関わりつつ地元九州で講演会に奔走しているとか、既に落ち着いてしまっている感もあります。
TV局やプロモーターにてみれば、『昭和ポップス』の復活はある程度のカネになる昨今の流れもあり、『チェッカーズ』復活は美味しいネタではあります。
そっとしておいてあげたいと願う一方で、私の青春を飾った数々の名曲が、『昭和の懐メロ』扱いでも構わないので、ずっと聴けることを楽しみにしています。
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