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【雑感】INTO THE WILDを観て

北斗と勇二と三人でやっているポッドキャスト「にんらじ」の収録のため、映画「INTO THE WILD」を見返す。
観るごとに自分の焦点が変わってゆく映画だ。
物語の結末から、それに至る過程、見えないように散りばめられた希望と、クリスの憤りを越えた自由への渇望。
時空列の配置が絶妙なバランスをとり、善と悪、HAPPYとBADの二元論では語らせようとしない。

旅に出た後のクリスは、自身の名前を除いて一度も嘘をつかない。両親の前での姿が偽りなのだとしたら、旅に出た後の彼はあまりにもピュアで、正反対なその姿にはいささか違和感を覚えたりもするがしかしそれは逆説的に言えば、偽り続けてきたからこそ汚れることのなかった彼自身の根源的な部分だったのかもしれない。(偽名が別人格を作ったとは考えにくい)とにかく彼は野心家で、情熱的で、生きることに純粋だった。
彼はただ自由を求めた不自由な青年で、アラスカの地で自然の脅威に立ち阻まれただけなのだ。
死の際にクリスが思う「再び両親の元へ帰ることが出来たなら自分が見ているものをシェアできるだろうか」というセリフは、彼が心から誰か(ここでは両親)を許し、愛したことを意味するのだろうか・・・。クリスは本当は、旅に出る前からずっと、自由ではなく幸福が欲しかったのかもしれない。

一方でクリスを失った両親は、喪失の苦しみを新たな絆として生きた。なんという皮肉だろう。人間は、いつだって取り返しのつかないことばかりしている。私たちはそうやって愚かながらに生きている。皮肉だと思えることこそ一番リアルなのだ。
だから映画の中で最も孤独なのは、クリスの妹かもしれない。彼女は誰かと哀しみを分かち合うことが出来ただろうか?

この映画は、ところどころに一貫性を持って散りばめられたクリスの人間性(とりわけ未熟さ)とトラウマが物語を照らし陰影を作ることに成功している。両親の喧嘩を独り言で再現するシーンは、クリスの知的で野心に溢れた瞳を浮かび上がらせ、道中での出逢いと別れ・その豊潤さは、ラストシーンの無力さを鮮明にする。主演・エミール・ハーシュの演技もさることながら、ショーン・ペン監督の映画制作に対するイマジネーションの高さには脱帽である。死ぬ前にクリスが言葉を書き遺し、身体を洗って服を着る様子は、クリストファー・ジョンソン・マッカンドレスへの敬意が込められており、フィクション・ノンフィクションのどの部分においても質の高い作品である。

映画評論はここまでとして、自分の思ったことをシンプルに書き記すとすればやっぱり、サヨナラだけが人生なんだぁと思う。(過去に自分が何かから引用した言葉)
どんなに喜びに満ち、怒りに震え、夢を追いかけても、意味を持つのはサヨナラの瞬間だけである。その瞬間の意味づけのために、愚問を問い続けるのだ。
それも楽しいことなのかもしれない。