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「この作品は植松聖を救う作品になっていないか?」(ある日の鈴木励滋さんとの議事録より)

いよいよ来週末に本番を迎える人間の条件『The Human Condition』。本作では、生活介護事業所カプカプの元所長であり、演劇ライターでもある鈴木励滋さんに、アドバイザーとして参加してもらっています。特に立ち上げ期には脚本・演出のZRと鈴木さんとの間で定期的にミーティングを行い、ZRが気になっていること、つまづいていることについて逐一相談しながら作品作りを進めました。
今日の記事では、作品の基本的な構想が出来上がってきたころの、ある日の議事録から、二人のやり取りをピックアップします。


鈴木励滋さん

1973年3月群馬県高崎市生まれ。97年から勤めていた生活介護事業所「カプカプ」を昨年度末に離れて、次の場を準備している。演劇ライターとしては劇団ハイバイのツアーパンフレット、「東京芸術祭」のウェブサイトなどに書いている。「障害×アート」については『生きるための試行 エイブル・アートの実験』(フィルムアート社、2010年)、はじまりの美術館の記録集などへ寄稿。師匠の栗原彬(政治社会学)との対談が『ソーシャルアート 障害のある人とアートで社会を変える』(学芸出版社、2016年)に掲載されている。

ZR

演劇団体・人間の条件を活動のベースとして、音楽に触発された演劇作品の制作を行う。戯曲ではなく音楽のプレイリストから作品を制作した『絶触』を皮切りに、身体によるドラマを追求した演出を行っている。2023 年 7 月には条件の演劇祭vol.1-Kabukiを主催し、若手4団体が歌舞伎の翻案作品を上演する演劇祭のフェスティバルディレクターを務めた。以降、『東海道四谷怪談』をベースにした『四谷心中』や、坂口安吾の同名小説を原作とする『桜の森の満開の下』など、古典作品の現代的感覚に基づく上演を行う。9月25日から30日まで、津久井やまゆり園事件を題材にした新作『The Human Condition』を上演予定。




ZR:前半はある程度事件や事実に沿った展開をしながら、後半は現実を飛び越え、サトくん(植松聖をモデルにした登場人物)とカズくん(施設に入居する重度知的障害のある登場人物)がいかにともに生きられるか、ということにフォーカスしようと思っています。これはやはり、ドキュメンタリーチックに事件の再現を試みる意味はなく、その先、「私たちはともに生きられる」という感覚をお客さんと共有するところまで持っていく必要があると思っているからです。

鈴木:うーん、僕なんかは前半で現実に沿った展開をする必要あるの?って思っちゃいますけどね。そういう描き方にすると、お客さんは身構えちゃって、固いドキュメンタリーを見るお客さんになっちゃいそう。そうすると、後半で描こうとしている、「見ている人も巻き込んでいく」っていうところで乗ってくれないないんじゃないかな。

ZR:でも、僕や鈴木さんは事件について関心もあるしよく知っているわけですけど、わざわざ関心持って見に来る人でも事件についてそこまで知らない人もいるわけで。きちんと作品として成立する範囲の中で最低限の説明は必要だと思うんですよね。

鈴木:でも説明は本で読めばいいですからね。やるにしても、後半のシーンの中で何かしら効果がないと、単なる自分らの「教えてあげたい」という満足になりそう。

ZR:ありますね、そういう、作家がいかに真面目に勉強してきたかを開陳してるだけの作品。その現実に隣接する描写に作品としての必然があるか、っていうことですかね。

鈴木:そうですね。同時に、事件を自分のこととして感じていない人が見たとして、前半で「知的障害者は世の中にとって価値がない、関係すら持つ必要がない」という価値観が示されるとき、”異常”な彼だからこそのことではなくて、観客自身の中にもうっすらとこの悪がある、ということが共有されないと、自分とは無関係だと思いながら後半を見続けちゃう人もいるんじゃないかな。

ZR:その辺も前半のシーンの役割になりそうですね。それは、「なぜこの事件が起こったのか」ということに対するスタンスをとる、この社会の責任を描くということでもあると思います。その意味で、最近気になっているのが、「この劇が植松聖を救う作品になっていないか?」という部分です。前半で、彼を殺人に追いやった要因や社会を描き、後半で彼がそうしなくてよくなるには、というのを描くとすると、この作品は彼を許し、救済する作品になってしまわないか、と思います。それでは、殺された人たちのことを無視した作品になってしまう。

鈴木:それもやっぱり、前後半の組み立て方にかかってるんじゃないですか。後半では、いわば彼が知的障害がある人たちの生を「理解」する過程が描かれることになるんですかね。でもそうだとしたら、その「理解」は本当のことじゃなくていい。「本当」のことは科学あたりがやればいい。「本当かどうかわかんないけども」っていうことをやるのも演劇の重要な役割。描かれるのは「本当」でなくっても、嘘でもいい。でも、その嘘が、切実に、思っているところに届くようになるといい。そして、「理解できない他者」を理解できた錯覚を覚えるとか、それが心地よかったという観客も巻き込んでの体験をさせられたら相当おもしろい。つまり、知的障害がある人のことを「理解」やもっと言えばあたかも自らのことのように「体感」したという、嘘かもしれないけれど、もし彼が本当にこういう体験をしたなら殺さなかったかもしれない、ということを観客は見ることになるわけですよね

ZR:そうですね。

鈴木:だから、植松聖を救わなくてもいい。前半でみんながほんの少しでも「みんな根源的には植松と違わないよね」と思っちゃう、けど、後半で障害がある彼らのことを「理解」や「体感」できた、それは心地よいことだったという経験をしたうえで、でも現実には……。そうすると、「あーなんてことだ」っていうのがより強く出てくる。この喜びや楽しさを知らなかったから彼はあんなことをしちゃったんだ、なんて残念なんだ、って強く思う。それは彼を憐れむことにはなっても救うことにはならないんじゃないです

ZR:なるほど。

鈴木:「彼も追い詰められていたから仕方なかった、彼を許そう」ではなく、「こんなに喜ばしく生きる可能性があったんだから、彼が彼らを殺すなんていう事態が起こらなければよかったのに」と観客が心から思えることを目指す。擁護ともいたずらな救済とも違う。あくまで、フィクションの彼を見る中で、見る人たちそれぞれが、自分だったらとか、そうならない世界について考え始めるかもしれない。

ZR:たしかに。事件が起きたことに対して、「こういう社会的要因がある」だけでなく、「こういう理想的な風景があり、私たちはそこに至れるかもしれない」というところまで描く。それにより、この事件を積極的に乗り越えるべき、乗り越えられる悲劇として見ることができるようになる、ということですかね。

鈴木:そのためにもやはり、前半を少なくとも何らかの形で自分事として受け取れるようになっているかどうか、というのを検証したほうがいいでしょうね。それによって後半が活きるかどうかが決まる。あくまで他人事であれば、この理想の風景というものが、単に加害・被害を越えたちょっといい話、で終わってしまう。

ZR:さっきの話に戻ってきましたね。そのために、そもそもの現実の提示の仕方、言い換えれば現実との距離の取り方が重要になるわけですね。引き続き考えていこうと思います。

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人間の条件 『The Human Condition』 脚本・演出 ZR

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2024年9月25日(水)-30日(月) @中野テルプシコール

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