マンハッタンカフェのふかいり —第一章—

G1レース終了から一週間が経った。
トレーナー室で書類仕事をしていると、扉を静かに叩く音が聞こえてきた。

『どうぞ』

ドアが開き、マンハッタンカフェが顔を覗かせた。

「トレーナーさん・・・お仕事中、すみません・・・」

『いや、大丈夫だよ。どうしたの?』

彼女はは静かに部屋に入り、僕の机の前に立つと、少し深呼吸をして口を開いた。

「あの・・・日曜日に、お時間ありますか・・・?」

『日曜日?えーっと・・・うん、特に予定は入ってないけど。』

「よかった・・・。実は・・・トレーナーさんと、行きたいところがあるのですが・・・。」

躊躇いがちに告げられた言葉に、僕は少し驚いた。

『え?でも、せっかくの休日だよ?・・・僕なんかと過ごして時間を無駄にしたら、カフェの時間がもったいないよ・・・。』

「そんなことは・・・ありません。トレーナーさんと過ごす時間は・・・決して無駄じゃありません。」

そう言って真剣な眼差しで僕を見つめるカフェ。
その言葉はお世辞でないことは、彼女の目を見れば明らかだった。

「それに・・・G1レースのために、トレーナーさんにも無理をさせてしまいました。少しでも・・・労いたいのです。」

『カフェ・・・。』

彼女の思いやりに、思わず胸がじーんと熱くなる。

「お願いします・・・トレーナーさん。」

上目遣いにこちらを見つめる満月のような瞳と目が合い、僕は断ることはできなかった。

『・・・わかった。そう言ってもらえるなら・・・日曜日、一緒にお出かけしよっか。』

「・・・! ありがとうございます!行き先は・・・ふふっ、秘密です。きっと・・・トレーナーさんに喜んでいただける場所だと思いますから。」

そう言って、彼女は嬉しそうに部屋を出て行った。


日曜日の朝、約束の場所に着くと、カフェがすでに待っていた。

「おはようございます、トレーナーさん」

『おはよう、カフェ。早かったね』

「はい・・・少し緊張して・・・早く着いてしまいました」

気がつくと、彼女の頬が少し赤らんでいる。
普段のレーシングスーツとは違う、淡いブルーのワンピース姿が新鮮だった。
これまでみたことのない装いに恥じらうような仕草を見て、こちらもなんだか恥ずかしいような、頬が熱くなるような感覚を覚える。

『じゃ、じゃあ、行こうか。どこに連れて行ってくれるの?』

「それは・・・着いてからのお楽しみです。」

カフェに導かれるまま、僕たちは電車に乗る。
窓の外を眺めながら、カフェは時々僕の方をちらちらと見てきた。

『・・・?どうかした?』

「いえ・・・ただ、トレーナーさんと一緒にいられて・・・嬉しくて」

素直な喜びの言葉に、僕は少し照れてしまう。
普通、大人の男ならば女性を・・・それも教え子を先導していくのが、世間一般での普通なのだろうが、僕はカフェに完全に調子を崩されてしまっていた。

30分ほど電車に揺られた後、僕たちは閑静な住宅街に降り立った。

「こっちです・・・」

カフェに案内してもらいながら、彼女と隣り合わせで歩いていくと、小さな路地の奥に、古風な佇まいの喫茶店が見えてきた。

「ここが・・・ワタシのお気に入りの喫茶店なんです。」

店内に入ると、落ち着いた雰囲気が広がっていた。僕たちは窓際の席に向かい合って座った。
相当通ったことのあるお店なのか、彼女はメニューを見ずに注文をしている。
どうやら、僕の分も注文してくれたらしい。

「ここのコーヒーは・・・本当においしいんです。トレーナーさんにも・・・きっと気に入ってもらえると思います。」

カフェの言葉通り、運ばれてきたコーヒーの香りは格別で、口に含むとまるで果実のような、複雑な味わいが広がった。

『うん、本当においしいね。ここを教えてくれてありがとう』

大切なカフェの時間をもらって、こんな素敵なお店に招待してくれたことにお礼を言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

「よかった・・・。ここにお連れしたのは、実は・・・トレーナーさんともっといろんな話がしたくて・・・」

『いろんな話?』

「はい・・・トレーナーさんのこと・・・もっと知りたいんです」

柔和な笑みから一転した真剣な眼差しが、僕の体を射抜いた。

「トレーナーさんは・・・いつもワタシの話を聞いてくれます。でも・・・トレーナーさん自身のことは・・・あまり話してくれません。」

『そう・・・かな』

「はい・・・だから今日は・・・トレーナーさんのことを、たくさん聞かせてください」

カフェはそう言って、優しく僕の手を握ってきた。

突然の接触に、僕は思わず体が強張るのを感じた。
カフェの手の柔らかさと温もりが、僕の動揺を更に大きくする。
彼女が時々こうして手を握ってくることはあったが、どうにもなれず、緊張してしまう。

『あ、えっと...』

言葉が詰まる。細い指がだんだんと絡まり、彼女の端正な顔が少し近づいてくる。
その様子に頬が熱くなるのを感じながら、僕は目を泳がせた。
カフェに見透かされないよう必死に落ち着こうとするが、心臓の鼓動が早くなるのを止められない。

そして同時に、別の不安が頭をよぎる。

自分のことを話して本当にいいのだろうか。これまで誰にも話してこなかった過去や、家族のこと。
そんな話を、学生である彼女に、”赤の他人”にしていいものなのだろうか。


———嫌われてしまわないだろうか


でも、目の前のカフェの真剣な眼差しを見ると、そんな心配は杞憂のような気がしてくる。
彼女の温かい手が、まるで「大丈夫だよ」と語りかけているかのようだった。

深呼吸をして、僕は少しずつ緊張をほぐしていく。
カフェの温かさに、僕の心が少しずつ溶けていくのを感じた。

『うん、わかった・・・。どんなことを聞きたい?』

すると、金色の双眸が瞬いた。

「全部です・・・トレーナーさんの過去のこと、家族のこと、好きなこと・・・全部知りたいんです。」

全部・・・全部か・・・。
僕は再び深呼吸をする。

自分のことを話すのは決して得意ではない。
でもカフェの真摯な態度が、少しずつ心を開こうと思わせてくれる。
昔話をする過去と向き合う勇気をくれる。

『じゃあ、どこから話そうかな・・・』

そうして僕は、自分の過去や家族のこと、趣味のことなどを、ゆっくりと話し始めた。
その間、カフェは熱心に聞いてくれて、時々質問を挟んでくる。

時間が経つのも忘れて、僕たちは話し続けた。

窓の外では、夕暮れの光が街を優しく包み始めていた。