オリンピック是非にみる”不条理の真相”

昨年、note上にて記した一項である。

●不条理の真相

「組織の不条理」菊澤研宗著。
なぜ不条理が組織内で発出するかについて言及している。

著者は、限定合理性(すべての人間は情報を収集、処理、
表現する能力が限定されており、その能力内でしか合理的
に行動できない)の仮定のもとに現象を分析している。
合理性と効率性と倫理性は必ずしも一致せず、
それゆえ合理的でありながらも不正を伴ったり、合理的
でありながらも非効率であったりするというのだ。
にもかかわらず、人間はときにあたかも神のように完全合理性の
下(批判性の伴わない)におかれている時に不条理な採択
してしまうという。
(”開催し、国民に元気と勇気を与え、新型コロナを吹き飛ばそう!”的な発言)
例えば、第二次大戦の戦時下で日本軍がガナルカナル戦で
選択された白兵突撃戦術について論考は興味深い。
この奇襲戦術は軍刀を振りかざし、大声をはりあげながら
夜襲するというもの。当時、食糧、兵器などの物的資源
に限りがある日本軍がとっていた精神訓練を基本としながら
、日本軍のデファクトスタンダードでもあり、完全
に日本兵の脳内がロックインされていたともいわれている。
しかも、
失策にもかかわらず、三度も同じ戦術がとられた背景に、
作戦の変更は、巨額のコストを覚悟しなければならない状況下
にあったとも。
それが上記のいう、合理性と効率性と倫理性は必ずしも
一致せず、それゆえ合理的でありながらも不正を伴った
り、合理的でありながらも非効率であったりするといわ
れる所以である。

つまり、不条理な状況下に当事者からみれば、ある種の
合理性のもとになされており、すでに戦術変更できない
ほどの多くのリスクが発生し、すでに軍内において批判
性をもてなくなっていたというのだ。


上記の記述により伝えた状況が新型コロナ禍による現況と重なってしまうのを杞憂と片づけてしまうにはあながち無理があるような気がするのは、わたしだけだろうか。

子どもの頃から観つづけてきた、在りし日?のオリンピック神話(アマチュアリズム)が好きなものとしては、選手のパフォーマンスは是非観たいと思っているし、そうなってほしいと心底願っている。

ただ、システムとあまりに複雑に絡まり過ぎている現代において、コロナ禍上、開催するかいなかの是非論とを重ね、二項対立の問題に収斂してしまうのは、非生産な糾弾、誹謗中傷、感情論に陥ってしまいかねない問題を孕んでいる。

多様な意見があっていいし、むしろ、さまざまな議論を通じ、ひとりひとりが自己(世界観、好み、人間関係、環境、歴史など)、社会、時代、人のいのちについて、考えることを避けるべきではないような気がする。

もちろん考えるのを避け、あの人がいうから自分もそう思う、でもいいと思うが…そのときに大切なことは、そんな自分をどこかで意識化したほうが、今後の日常、いや人生において、視野が広がる分、すこしは喜びを享受できるような気がする。

つづく


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