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蕎麦変人おかもとさん #11

第十一話 ライターを辞めて松阪へ行きます

(第十話 岡本さんと柏木さんの石臼研究会)

 一九九七年秋、僕はあるアホな決断をする。それは翌春、仕事をやめて嫁はんのいる三重県松阪市に引っ越すことにしたのだ。理由は、昨年の七月に生まれた我が子と一緒に暮らしたかったから。

 息子が生まれて一年以上たっても嫁はんが三重県松阪市から帰ってこないのである。電話しても留守だったり、親戚との付き合いが忙しいとのことで、なかなか連絡がつかなくなっていた。子供を抱きたくて、家族で生きていきたくて。ようやく仕事が軌道に乗り出したというのに、僕はすべてを捨てて引っ越そうと決断した。

 当然、周囲はみんな反対した。が、母親と岡本さんだけは応援してくれた。僕が住んでいた豊中の四〇平米のマンションは、一九七九年四四歳で急逝した親父の唯一の形見である。これを母親が売りに出してくれた。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。命がけで幸せになることをこの時強く自分自身に誓った。

 一九九八年、春。無事に松阪に引っ越す。引っ越しは岡本さんが手伝ってくれた。

 そして八月に、インドの日替わり定食の店『THALI』(ターリー)を開業。店は約五坪。家賃は二階の住居込みで税込六万三千円。開業準備費用は約一〇〇万円である。なぜインド料理なのかはまたの機会に話す。

 とにかく、僕の人生が激変しても、岡本さんは以前と何ら変わりなく、しょっちゅう遊びに来てはあちこちの蕎麦屋の話をしてくれたり、時に三重県内の蕎麦屋の共に食べ歩いたりして、蕎麦屋探検ミッションだけは継続していた。

 僕の店の開業後すぐ、『かしわぎ』の柏木さんも遊びに来てくださった。大阪の昆布の佃煮をもって。まさかの来店に、その日の夜の営業は急きょ取りやめ、二人でインド料理を肴に三重の地酒一升瓶を飲み干した。

 その後、『拓朗亭』の前川さんも奥さんと娘さんを連れて遊びに来てくれた。さらに大阪西天満の一九三〇年創業の蕎麦屋三代目、勘田拓志さんもご家族と共に遊びにご来店。彼は同じ「三たて」でも二八蕎麦の巨匠、『翁達磨』(当時『山梨翁』)の高橋邦弘さんのもとで修行し、今年中に関西初の翁の暖簾『なにわ翁』として再スタートを切るという。

 岡本さんによると「『味禪』日詰さんたちもすごく応援してくださっている」という話も。多くの名店の方々が、まさか自分なんかを気にかけてくださっていることに、驚きと嬉しさでいっぱいだった。

 なのに、それなのに、翌年一九九九年、僕は離婚してしまう。理由は、とても一言では説明できない。

 とはいえ、店はスタートしたばかりなのでどうしようもない。というか僕は一生松阪で生きていく、ライターを辞めてインド料理人として生きていくと、捨て身の決意で松阪に来た。今さら戻るところなど、どこにもないのである。

 洒落にならない僕の状況を察してか、実情を知る関西や東京の旧友や元仕事仲間たちが入れ替わるようにして連絡をとり続けてくれていた。

 これからどうやって生きていくのか、という不安を抱えながらも、とりあえず店の営業を何とかこなすので精一杯の日々。 

 大事件が起こったのはそんな時である。

 一九九九年八月。岡本さんから電話が入った。

「どないしはったんですか、岡本さん。こんな昼間っから電話をかけてくるなんて珍しい」

 すると岡本さんは、一呼吸を置いてから声を殺す。

「あのね、河村さん。時間がないので簡単にお伝えしますが……、あの、驚かないでくださいよ」

「なんですか、嫌な予感がするな。いったいどうしたっていうんですか」

「ええ、それがですね……あの名物編集長が亡くなられたんですよ。つい数日前のことのようです。どうやら列車のつなぎ目に落ちてしまったようで」

 全身が一瞬にして固まった。名物編集長とは、蕎麦特集を指揮してくれた元あまから手帖の住吉あかし編集長のことである。蕎麦以外にも、僕を料理研究家として起用したり、タイ・バンコクまで出張してスパイス・ハーブをテーマにレストランや市場などの取材をさせてくれたり、とてもお世話になっていた方である。

「そんなアホな……なんでまた列車の隙間に」

「詳細はわからないんですけど、亡くなられたのは事実です。新聞にも載ってますから見てみてください」

 コンビニへ行って新聞を漁ったが、松阪は中部圏。この町で関西の詳しい情報は収集できなかった。僕はその日の夜、店を早めに閉め、動揺した気持ちのまま『かしわぎ』まで車を飛ばした。

 松阪からミナミまで僕の軽自動車で約二時間の距離。夜の十一時頃、『かしわぎ』に着く。岡本さんも待っていてくれた。

「柏木さんっ。住吉さんが亡くなられたってほんまですか」

 柏木さんは釜の前からゆっくりとこちらに身体を旋回させて言った。

「あぁ、いやぁ、本当だよ」

「なんでなんすか。なんで列車に」

「いやぁ、どうもその日はかなり酒が入ってたみたいだね。まぁいつもといやぁそうだけど。それで、どっかの帰りだか行きだかに、落っこちたみたいなんだよねぇ」

 そう言ってカウンターの裏側に置いてあった計量カップをちびり。

「ふぅむ、詳しいことはわかんないけど、とにかく列車が轢いちゃったって話だよ。京都の河原町駅だって。彼女の家は桂のほうだから、たぶんどこかからの帰りだったのかもね。まぁ彼女らしいっちゃぁらしい死に方だねぇ。酒いっぱい食らってさぁ。よくわかんないうちに逝っちゃったわけで」

 僕は呆然としたまま椅子に腰掛け、ゆっくりと一息ついてからおでんの大根と瓶ビールを注文する。岡本さんはいつものほうじ茶を手に持っている。グラスをもう一つもらい、柏木さんの分のビールも注ぎ、ゆっくりと前に差し出し三人で「献杯」。

「そうなんですか、まさかすぎますね、信じられへん」

「だね……。でもまぁ彼女はようやくフリーになったところで、これでゆっくりと休んでもらってね」

 住吉さんは僕が松阪へ引っ越すことになった同じ年と月、一九九八年三月に編集部を退職しフリーとして活動していた。

「僕が松阪へ発つ直前に送別会やと言って、住吉さん行きつけの梅田の割烹へ連れて行ってもらったんです。そこで、わたしはこれからはライフワークとして、日本の伝統料理をじっくりと時間かけて取材するねん、なんてこと言ってはりました。

 で、そのときに、あんたはこれからどうするんや、インド料理屋を中心にライターもやるんか、それともライターをやりつつインド料理屋もやるんか、どっちのスタンスかをはっきりとしといて、と言われまして。それで僕はこう答えたんです。もう大阪には戻りません。一生三重県でインド料理屋ですと。すると住吉さんはゆっくりと頷いて、私にも息子がいるから気持ちはようわかる、自分を信じて生きなはれ、と言って笑って見送ってくれました」

 柏木さんは曲がったマイルドセブンに火を点けて深く一服した。そして、毛糸の帽子をさすりながら、遠くを見るような目でぼうっと彼方を眺めた。

「彼女はね、ああ見えて酔っぱらっていても大事なことは覚えているんだよね。それで、本音が出るのもそういう時。強引なところがある一方で、実は悩んでいたり、寂しかったりしたことも多くあってさ」

 住吉さんが寂しがり屋で深酒なのは業界では有名な話だった。そしてまた、少々無理があってもやると決めたら絶対にやるのだ、というタフなところも有名だった。色んな意味で怖がっている人は多くいたはずである。

「でもまぁ、自分はこれだって言ってやっちゃう人がやっぱり面白いよ。人なんてその時々で何をやってもいいと思うんだよねぇ。周りでがやがや言ってるだけの人はどうでもいいよ」

「住吉さんほど面白人は、関西の雑誌シーンにはもういらっしゃらないんじゃないですか。あの方の大胆さがあったからこそ前代未聞の蕎麦特集が実現できたわけですから。関西蕎麦ルネサンスを世に知らしめた仕掛け人。きっと他にもそういった偉業がたくさんあるんでしょうね」

 そう言って岡本さんはほうじ茶をずずずっ。

 しばらく沈黙が続いて、ふと思い出したように柏木さんが口を開く。

「人間っちゅうのは死ぬとどうなっちゃうんだろうね」

 岡本さんを見ると湯呑を凝視していたので、僕がいい加減なことを言う。

「なにやらお化けかなんかになって、あのときこうすりゃよかった、あーしとけばよかったなんて、いろいろ思うんだそうですよ。『拓朗亭』の前川さんが言うてはりました。あの方、かなり霊感が強いそうですからほんまにそうなんとちゃいますか。なんでもやりきっておかないと後悔するということですかね」

 柏木さんはにんまりとして計量カップをちびり。岡本さんはほうじ茶をずずずっ。

 この後、〆に二八そばを平らげ、我々は『かしわぎ』を後にした。

 今日の僕は、オートマ・重ステ・手こぎウィンドウの、黒色の軽自動車ミラで来ている。

 岡本さんを緑地公園駅まで送る。堺筋を北上し、西天満『なにわ翁』を超えたら左折してフリーハイウェイ的な新御堂筋に乗る。うなるエンジンと吹き込む風の音がうるさくてしょうがない。そして岡本さんが怒鳴るように大きな声でこう言った。

「河村さんっ。もう大阪には戻らないとおっしゃってましたが、もしまた気が変わったら帰ってきてくださいっ。そして、また書いてくださいっ。蕎麦のこともっともっと。蕎麦以外のおいしいものも、それを作る人のことも全部。もう一度書いてくださいっ」

 ためらう僕は「ありがとうございます」と当たり障りのない答えをしたが、車はちょうど淀川の上に差し掛かり、さらに強く吹き込んでくる風でたぶん岡本さんには聞こえていない。

 蕎麦探検隊はまだまだ続く。

「第十二話 七割八割」


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