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『負完全燃焼』 4年 内田陸斗

まず始めに、今シーズンも東京学芸大学蹴球部への多大なるご支援とご声援をいただき、ありがとうございました。そして、今後ともよろしくお願いいたします。

お世話になっております。康宗からご紹介いただきました、E類生涯スポーツコースの内田陸斗です。

「意外にも引退試合後に泣いていて、もらい泣きしそうになった。」という裏話がありましたが、その涙の理由が今回のブログで明かされるかも、明かされないかも分かりません。また、「酔っていたから覚えてないと思うけれど、康宗の練習は考えることが多いから楽しいと言ってくれたことが嬉しかった。」という感動話がありましたが、確かに全く覚えておりません。この場を借りて感謝申し上げます。

思い出話も竹中直人ですが、そろそろ本題に入りたいと思います。長く拙い文章にはなりますが、卒業論文よりも気持ちを込めて書きました。皆様の清く正しく美しい心と体で向き合っていただけると幸いです。



2019年10月22日
試合終了と同時に自身の高校サッカー終了のホイッスルがピッチ上に響いた。

遡ること2日前、試合中にー相手のニー(膝)が自身の右太腿を襲った。襲ったというよりも擦ったという表現の方が正しいかもしれない。痒さすら感じるほどの軽いモモカン。

「病院に行くほどの怪我ではなさそうだな。」
「一応アイシングはしておけよ。」

チーム関係者の誰もが特別心配をしない。
その程度の怪我だった。のはずだった。

試合後、次の対戦相手のスカウティングをしながら地元記者の質問に応えた。一応アイシングをしながら。

「憧れの選手は誰ですか?」
「リーチ・マイケル選手です。」

和気藹々とした雰囲気のインタビューを終え、立ち上がろうとしたその時だった。自身の太腿が、自身の華奢な太腿が、リーチ・マイケル選手の太腿ほどまでに腫れ上がり、ラグビーのゴールポストほどまでに硬直し、自身の力で立ち上がることすらできない状態になっていた。

診断結果は大腿部の筋肉内血腫。所謂、太腿部の内出血だった。全治は約半年。2日後の試合に出場するなんて夢のまた夢だった。

高校サッカー終了と同時にサッカープレイヤー引退を決めていた自分にとって、最後の大会を怪我で終えることなどもちろん想像の余地もなく、まさに絶望であった。とは言え〜次の試合までに残された時間はあと2日。次の試合に対する2つの思いが脳裏に浮かんだ。

「チームをサポートする立場に徹するべき。」
「少しでも良いから試合に出場したい。」

正しい選択がどちらであったかは未だに分からないが、当時の自分は後者を選択した。医師、チームドクター、監督、両親、周囲の様々な方々のご尽力により、試合数分前まで可能な限り処置をしていただき、最後の10分、何とか出場できた。まさに奇跡だった。

しかし、ピッチでプレーする自身の姿には、キャプテンとしてチームを引っ張り、勝利に導くような輝かしい姿は微塵たりともなかった。走れない。動けない。蹴れない。誰がどう見ても足手まといだった。チームは敗れ、高校サッカー終了、そしてサッカー人生終了が決まった。

“不完全燃焼”

自身の心情を表すのにこれ以上ない言葉だった。

部活動を引退した同期らが勉学に気持ちを切り替え、志望校合格に向け、塾や自習室に通う中、自分が通い詰めていたのは病院のリハビリ室だった。自身の力では歩くことすらできず、人生初の車椅子及び松葉杖。まずは私生活への復帰を目指し、リハビリに通う日々。

「大学でサッカーは続けるの?」
「高校総体惜しかったね。お疲れ様。」
「国体選手だったんだって?凄いね。」

主治医、看護師、理学療法士から同じ質問を何度されただろうか。同じ会話を何度しただろうか。自身のサッカーに関する質問を。会話を。

「大学は経済学部に進学し、商社で働き、人生の勝者になろう。」

リハビリ室でサッカーに関する会話を重ねるにつれ、高校サッカー最後の大会前、進路に関して同期らと冗談交じりで話していたあの頃の感情は徐々に消え、気づけば予想だにしていなかった感情が自身の心を埋め尽くしていた。

「こんな終わり方でサッカーを辞めて本当に良いのか。」
「大学でもサッカーを続けたい気持ちはないのか。」
「大学でサッカーよりやりたいことがあるのか。」

全てサッカーに関することだった。高校でやめるはずのサッカーの話。何とも言えないモヤモヤとした感情が自身の心を埋め尽くし、自分はどうしたいのか、どうすれば良いのか、思い悩み、思い詰める日々。勉学に全く集中できない日々が続いた。しかし、そんな日々を打ち砕いてくれたのは日常会話中の母の何気ない一言だった。

「りくには大学でもサッカーしてほしいなぁ。」

母がどのような気持ちで言ったのか、その言葉がどれだけ強い思いだったのかは分からない。しかし、サッカーに対する未練が疑心から確信に変わり、大学でもサッカーを続ける決心をするのに、当時の自分にとっては十二分すぎる言葉だった。

そして、大学でもサッカーを続けることを決めた。

大学でもサッカーを続ける理由は、サッカーに対する未練の清算。高いレベルで自身を磨き、目に見えるような結果を残すことだけが唯一の方法だと考えた。完全燃焼を目標に高いレベルでサッカーができる国公立。自然と志望校は筑波大学と東京学芸大学に絞られた。正直、学部や学科はどこでも良かった。

「後悔のないようにサッカーをやり切りたい。」

ただその一心で志望校を決め、勉学に励んだ。結果、無事に東京学芸大学合格、念願の東京学芸大学蹴球部入部を果たした。

時は過ぎ、2023年10月28日
試合終了と同時に完全燃焼を目標に駆け抜けた大学サッカー終了のホイッスルがピッチ上に響いた。

自分が最後に立っていた場所は、関東リーグ最終節のピッチでも、Iリーグ最終節のピッチでもなく、Iリーグ最終節のアップゾーン。完全燃焼を目標に蹴球部の門を叩いたあの日描いた場所とはほど遠かった。

4年間で出場した公式戦はIリーグ5試合。最後の2年間に至っては途中出場したIリーグ1試合の2分のみ。数字だけ見れば、完全燃焼とはほど遠い4年間だった。

自分は自分自身を過大評価しすぎていたのかもしれない。今までのサッカー人生、最初は上手くいかなくても最後は上手くいくことが多かった。

小学校:県大会優勝回数多数の強豪クラブに入団。入団当初は毎試合ベンチ外、或いはベンチを温めていた選手であったが、最終学年時には全試合スタメン出場を果たした。また、地区選抜にも選出されるようになった。
中学校:団員数は100人を超え、北信越リーグに所属、県大会優勝回数多数の強豪クラブに入団。入団当初は最下位カテゴリーでポジション争いをしていた選手であったが、最終学年時には全試合スタメン出場を果たした。また、県選抜にも選出されるようになった。
高校:県大会ベスト8常連高校のサッカー部に入部。入部当初はBチームで活動していたが、最終学年時にはキャプテンとしてチームを県大会準優勝に導いた。また、国体選手に選出され、県選抜でキャプテンを務める時期もあった。

まさに終わりよければ全て吉幾三を体現してきたようなサッカー人生、そして大学サッカーでも体現するはずだった。

新型コロナウイルスの影響で大学1年時こそスタートが出遅れてしまったものの、大学2年から3年にかけてのプレシーズンから大学4年時の関東リーグ前期までの約1年半もの間トップチームで活動し、関東リーグ出場のチャンスを掴むことができる環境で練習することができた。自分なりの完全燃焼を果たすことができる環境で練習することができた。なかなか試合に絡めない日々が続いてはいたが、「必ずいつか自分にもチャンスはやって来る。」と信じ、練習を頑張り続けた。努力もし続けた。自分なりには。

しかし、終わってみれば、関東リーグ出場は愚か、ベンチ入りさえ1試合もすることができなかった。大学4年時関東リーグ後期からはBチームで活動することになり、最後はBチームで引退した。最初から最後まで何もかもが上手くいかない4年間だった。

思い返せば、私は関東リーグに出場するに値する選手でも、蹴球部の代表として試合に出場するに値する選手でもなかった。関東リーグに出場していた選手、蹴球部の代表として試合に出場していた選手に比べ、実力も身長も圧倒的に足りていなかった。そして、その足りない部分を補う努力も圧倒的に足りていなかった。自分なりの頑張りと努力は、所詮自分なりの頑張りと努力に過ぎず、高いレベルの中で結果を残す上では、ちっぽけで不十分な頑張りと努力に過ぎなかった。

「試合に出場できなくてもトップチームに所属できているだけで十分凄い。」
「試合に出場できなくてもサッカーを楽しむことができているから十分満足。」
「試合に出場できないのはスタッフとの相性が悪いだけ。自分は十分頑張っている。」

関東リーグ出場、そして完全燃焼を目標に、自分なりにではあったとしても頑張り続ける日々、努力し続ける日々が、いつからか、現実から目を背けること、そして自分を守ることを目標に、自己肯定し続ける日々、他者にベクトルを向け続ける日々に変わってしまっていた。

もちろん、そのような日々を繰り返しているようでは現状は変えることはできない。試合に出場できないのは、スタッフのせいでも、環境のせいでも、ドルチェ&ガッバーナのその香水のせいでもない。全て自分のせい。自分の実力不足のせい。自分の努力不足のせい。気づいた時にはもう遅かった。気づいた時にはもうサッカー選手として終わりを迎えていた。

しかし、最後の最後で、目標達成相応の実力に見合っていなかった自分の実力の乏しさ、目標達成相応の努力ができなかった自分の精神力の弱さに気づくことはできた。そして、受け入れることができた。おそらく、大学でサッカーを続けていなければ気づくことさえもできなかっただろう。

高校までは狭い世界でそこそこの結果を残し、周囲からチヤホヤされ、天狗になっていたのかもしれない。そのちっぽけなプライドを守る為に高校でサッカーをやめようと決めていたのかもしれない。大学でもサッカーを続けることを決め、ある程度の自信を持った上で挑戦した大学サッカーだったが、完全に鼻をへし折られた。そして、最後の最後で、自分の実力の乏しさ、自分の精神力の弱さに気づき、受け入れることができた。

自身の実力の乏しさ、自身の精神力の弱さを受け入れることができたことで、自身の大学サッカー4年間も受け入れることができた。「Iリーグ5試合という自身の大学サッカー公式戦出場記録は過小評価でも不当な結果でもなく、自分の実力と努力相応の結果だ。」と受け入れることができた。

そして、自身のサッカー人生全てを受け入れ、労うことさえできた。「自分の実力、身長、足の速さでよくここまで頑張った。県大会優勝、準優勝、国体出場、たくさん良い思いができたではないか。本当にお疲れ様。」と労うことができた。

引退試合の挨拶時に流した涙。
あの涙にサッカーに対する未練はひとかけらもない。

「やっと終わった。」という安堵の涙。
「サッカーを始めて良かった。」という嬉嬉の涙。
「もうやりたくないほどやり切った。」という満足の涙。

高いレベルの中で周囲の実力に負け続けた4年間。
努力できない自分の精神力の弱さに負け続けた4年間。

周囲にも自分にも負け続けた4年間だった。たくさん傷つき、たくさん逃げた4年間。しかし、最後の最後に、その負け、その負けの要因全てが自分にあることに気づき、受け入れることができた。そして、自身の大学サッカー4年間、自身のサッカー人生全てを受け入れ、労うことさえでき、自分でも信じられないほど清々しい気持ちで引退することができた。

高校サッカー引退時とは真反対の感情。
大学サッカーで常に追い求めていた感情。

“負完全燃焼”

自分らしい完全燃焼だ。

負けてから気づいては遅い。後悔しても戻れない。しかし、負けてからも気づかないよりはよっぽどマシだ。負けてからしか気づけない、むしろ自分らしくて良いではないか。

今までのサッカー人生で築き、大学サッカーで傷つき、気づくことができた”負の遺産”を清算し、いつか”富の遺産”として精算し、人生の勝者になれるように、自分らしく、人に優しく、自分にもっと優しく、今後の人生を生きていきたいと思う。



今までサッカーありがとう。



最後に

両親へ
18年間何不自由なくサッカーを続けさせてくれてありがとう。時間もお金も労力もたくさんかけてくれて本当に感謝しています。これからは自分たちが好きなように生きて、自分たちの人生を楽しんでくれることを心から願っています。これから色々な形で少しずつ恩返しする予定です。いらないとか嫌だとか言わないでね。まだまだ伝えたいことはあるけれど、表だって本心全てを伝えることができない恥ずかしがり屋な息子でごめんなさい。帰省した時に直接伝える予定やからもうしばらく待っててね。

同期のみんなへ
最高な仲間と共に過ごした日々の練習、関東リーグ、Iリーグ、サタデーリーグ、学年会、シャワー、全ての時間が最幸な思い出になりました。みきや、ゆうご、てる、ばん、にしだ、よね、こうしゅう、かずほ、らいせい、ともひろ×2、ゆうき、ゆず、こうじ、かいと×2、そうた、けい、ねお、たいけい、ぽこ、こうせい×2、だい、りんちゃん、けんた、ありがとう。

スタッフの方々、恩師、先輩方、後輩たち、彼女にも伝えたい感謝は多々ありますが、言葉のみではなかなか表現しきれないほど多くの愛で溢れている為、この場では控えさせていただきます。ご飯でも飲みでも誘ってください。いや、誘わせてください。

本当に最後になりますが、これまで私に関わってくださった全ての方々にこの場を借りて感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。



次はMr.大将!片岸一穂です!
飲み会時、気配り上手な大将に助けられた人は多いのではないでしょうか?ねぇ小林昂生くん?まさにMr.大将!Mr.介抱!ものづくり技術学科で培われたのは異性とのパイプづくりの技術だけではないはずです。巧みな文章づくりの技術を活かし、どのような卒業ブログを書いてくれるのでしょうか?皆様、乞うご期待ください!

#紫志尊々 #jufa #大学サッカー

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