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『楽しさ半分、悔しさ半分』4年 中野光志

楽しさ半分、悔しさ半分
 柚樹から紹介を受けました。中野光志です。

 まずは、日頃より東京学芸大学蹴球部にたくさんのご支援、ご声援をしていただいている保護者の方々やOBの方々、関係者の皆様へお礼を申し上げます。

 そして、3年前に復帰した「関東リーグ」という舞台から、今年度の関東3部リーグの結果をもちまして、「都県リーグ」へと降格してしまいましたことを、改めてご報告させていただきます。ご支援、ご声援をしていただいた多くの方々へ申し訳ない気持ちでいっぱいです。また、来年最終学年となる今の3年生たちに「関東リーグ」という舞台を残すことができなかったことが今年1番の悔しさでもあります。

 大好きな後輩たちが来年度は「都県リーグ」での戦いとなりますが、一OBとして1年で「関東リーグ」の舞台に戻れるように精一杯応援します。




 これで卒業ダイアリーが終わるような書き始めをしてしまいましたが、今から本文が始まりますので、お時間を少しだけいただきます。



 「楽しさ半分、悔しさ半分」


第1章 サッカー人生終わり

 10月28日
 遊びでやっていた小学生時代から本気で向き合った大学生時代までの十数年間のサッカー人生に、この日をもって幕を閉じた。


 11月18日
 都県リーグ降格が決まった。
 この日をもって、事実上、本当の引退を迎えた。


第2章 大学までの道のり
 小学生の頃はプロになりたいとかめっちゃ活躍したいとか、あんまりそういったことは思わず、ただ「サッカー」というものを楽しんでいた。もしかしたらこの時が1番サッカーを楽しんでいた時期だったかもしれない。

 中学生では、公式戦で県大会にも出られないような家から歩いて20分くらいの弱小中学校でサッカーをした。当時から、「点を取りたい」よりも「ゴールを守りたい」の方を強く感じて、本格的にゴールキーパーとしてサッカーに取り組んだ。意外と才能があったみたいで、1年生の春の大会からベンチ入りを果たし、そこから試合に出たり出なかったりの日々を過ごした。

 当時の顧問の先生がトレセンの結構えらい人だった?ため、2年生の頃から地区トレセンに選ばれ、運良く2年生の後期に県トレセンまで進むことができた。トレセンではレベルの高いチームや選手が集まり、弱小中学でなんとなくサッカーをしていた自身の心に「本気でサッカーと向き合いたい」という感情が芽生えた。

 3年生の春頃だったかな。当時のトレセンの仲間から、「うちのクラブに来ないか」との誘いがあったのと、僕自身のこんな弱いチームでサッカーしたくない(言い方悪いから同期には申し訳ない)という思いがあって、顧問の先生に、
 「エスポ(県内でもトップクラスに強豪のクラブチーム)に行きたいから部活辞めたいです。」
と伝えた。
 当時は顧問の先生も僕の実力をある程度認めてくれていて、応援してくれるかなとも思ったが、答えは「ノー」だった。
 なぜ認めてくれないんだとも思ったが、言い返す力は当時にはなく、「ノー」と言われたからここで頑張るしかないんだなと開き直って、また弱小チームで日々を過ごすことに決めた。

 結局、最後の大会も地区予選で敗退。
 中学時代は今思えばなんとなく終わった日々だった。


 高校は、県内でもベスト4常連で、過去に全国大会も出場したことがある、公立の金沢桜丘高校に入学した。私立高校からのお誘いも少しはあったが、お金のことで家族に迷惑かけたくなかったのと、シンプルに勉強するのが好きだったから公立に行きたいと思っていたので、一般受験で高校に進学した。
 当初から当時の監督に好いていただいて、1年生のインターハイ予選からベンチに座ることができていた。中学生の途中で「本気でサッカーに向き合う」と決めてから、高校の練習はレベルが高くてすごく楽しかったし、試合でも強豪校と戦うことができて改めてゴールキーパーとしての楽しさを見出せたようにも感じる。
 高校1年生の途中からは、ずっと正ゴールキーパーとして試合に出ることができていた。その中ですごくお世話になった先輩がいるので軽く紹介したい。

 彼の名前は、「ニッキー」こと北川勇介。なぜニッキーと呼ばれていたのかはさておき、彼は中学のときはテニス部、高校の6月までハンドボール部、途中からサッカー部に入部してきた強者である。彼はいじられることを好んでおり、いつもみんなにいじられていた。ただ、サッカーになると誰よりも本気で一生懸命でゴールを守っていた。誰が見ても正直下手っぴだったが、彼のひたむきさや素直さは見習うべきものだと当時の僕は強く思った。
 彼は勉強ができないくせに、冬の大会(選手権大会)の予選まで部に残ってサッカーを続けた。彼は坊主にして気合い十分だった。ただ、試合に出ていたのは僕。彼は控えに回ることがほとんどだった。結局、最後はベスト8で負け、彼は泣いた。みんなの前で一言言ったのは、「ありがとう」ではなく「試合に出れなくて悔しかった」だった。彼のサッカーに対する本気度は本当に尊敬できた。
 この場を借りて。ニッキーがいたから高校サッカー楽しかった。ありがとう。


 はい。先輩の話は置いといて。
 高校3年生のときは、チームのキャプテンとしてインターハイ予選に臨んだが、ベスト4。僕以外の同期はみんな引退した。ただ、僕は、本気で全国を目指していたし、最後まで諦めたくなかったので、家族に真剣に相談すると、「いいよ」と答えが返ってきた。家族の了解を得て、まだサッカーを続けられると思っていたが、ここで担任が猛反対してきた。正直腹立たしい気持ちでいっぱいだった。「なぜわかってくれないんだ」「どうせ大学の進学実績が欲しいだけだろ」というような反骨心だらけだった。結局、続けていいよとの許可が出たのかどうかはわからないが、気付いたら授業終わりにグラウンドに向かい、ボールを蹴っていた。多分、許可してくれたんだろう。
 最後の大会でも結果ベスト4。引退した同期が応援に駆けつけてきてくれたが、0-5の完敗試合を見せてしまった。
 でも僕には後悔はない。最後まで本気でサッカーできて本当に楽しかった。


第3章 大学サッカーを振り返る
 東京学芸大学には推薦で入学することになる。
 推薦入試で受からなかったらサッカーを辞めようと思っていたが、合格をいただいたので、また本気でサッカーがやれることに喜びを感じた。

 練習参加初日。
 当時の4年生、トヨ君(21年卒)に大学サッカーの洗礼を浴びせられた。多分大学サッカートップ3に入るくらいのフィジカルメニューをさせられた。辛すぎて大学サッカー間違えたと思ってしまった。
 しかし、この時から新型コロナウイルス感染拡大が起き、1年の多くは小金井公園での自主練の日々を過ごした。

 時が過ぎ、2年生。
 同期の凜太郎の怪我もあり、意図なくしてトップチームに所属することになった。当時のトップチームは、松本山雅に所属する住田将君(22年卒)、FC琉球に所属する武沢一翔君(22年卒)、VONDS市原に所属する鈴木魁人君(22年卒)、市立船橋出身で世代別も経験のある橋本柊哉君(23年卒)など、高校時代に全国レベルで活躍した先輩や、現在はプロとして活躍する先輩が多くいた。
 そんな中で自分が一緒に練習をして、試合を間近で見ることはすごく光栄なことだった。
 しかし、試合に一緒に出ることはなかった。出る実力がなかった。そして、出てもプレッシャーに負け、絶対ミスをして、怒られて、何もできないと思っていた。なんなら、「試合に出なくてよかった」「ずっとベンチで見ていたい」とまで思うこともあった。
 そんなことを思っていたせいか、当時1年だった外川にあっけなく控えを取られ、夏から最後の何試合かまではビデオを撮る人になっていた。まあ、そりゃそうか。試合に出るのめっちゃ怖がってたもんな。と開き直る自分。特に絶対に取り返すぞという熱い気持ちはなかった。

 3年生になり、最初はトップチームで活動していたが、途中でBチームに落ちた。その時の気持ちは、前々回のブログに綴ったと思うので、そちらを見て欲しい。暇な時は。
https://note.com/tgusoccer/n/nffc056f91546

 実習があったり、コロナにかかったりでなんだかんだ大きな成果を出したわけでもなく、あっさり一年が終わった。

第4章 顎骨折からの今シーズン
 4年生になる前。練習中に顎を骨折した。その時の気持ちは、前回のブログに綴ったのでそちらを見て欲しい。暇な時は。

 怪我から復帰後、すぐにBチームへ。
 去年とは違って、今年は絶対にアイリーグ1部に行くんだという強い気持ちがあった。
 今年初めてのアイリーグ。0-5。完敗。
 何もできなかった。無力。

 次の試合から僕はBのゲームキャプテンになった。大学に入って初めてキャプテンマークを巻いた。懐かしさがあった。これを巻くことで「僕」という存在が生まれるような気がした。

 結果的に、順調に勝ち星を重ね、いよいよ1部昇格の道が見えてきたころだった。

  10/22の尚美学園大学戦
 前半を2-1で折り返し、迎えた後半。
 結果、2-4で敗戦。3失点目と4失点目は明らかに僕自身のミスだった。応援していた仲間は僕のミスでずっこけて少し笑っていたようだった。でも僕はそれが悔しかった。0-5で負けたとき以上に悔しかった。僕のミスで負けたという事実よりも、これで昇格の道がなくなったという事実よりも、この試合に負けて「悔しい」と思ってる選手や仲間があんまりいなかったことが悔しかった。
 まあ映像で見たらあのミスは笑っちゃうし、僕が応援側の立場にいても多分笑ってる。でも、誰かが悔しがっている時、誰かが下を向いている時は、仲間が手を差し伸べてくれてもいいんじゃないかな。笑う必要あったかな。まあ多分僕も笑ってただろうけど。

 次の週の10/28が最後の試合になった。
 その試合の相手は、0-5で完敗した同じ相手。絶対に負けたくない。その思いでいっぱいだった。
 前半から前回と同じような展開。0-2で後半を迎える。後半に入ってもなかなか点は奪えず、0-3になる。
 「あ、この前と一緒か」とふと思ってしまった。康宗もブログで書いていたが、僕はそう思っていたよ。
 でも、なんか行ける気もしていた。
 ついに1点を取り返すと、つかの間に2点目、最後に3点目を取り、結果3-3の引き分けで最終節を終えた。
 勝ててないけど、みんなで最後VIVA学芸できたのは、本当に一生の思い出になった。

 結論、正直今年も大した成果を果たせなかったし、キャプテンを任されても特にチームに貢献するようなプレーをすることはできなかった。
 でも、一年を通して、多くの試合に出れたこと、多くの試合でキャプテンマークを巻けたこと、多くの試合で勝てたことは、このBチームにいたからこそ経験できたことだと思う。

第5章 みんなありがとう
 大学4年間をはじめ、中学生から高校生までに指導していただいたコーチ、スタッフ、監督。一緒に戦ってくれた仲間。最後までお金の面でも送迎の面でもいろんな面で支えてくれた家族、おじいちゃんおばあちゃん。本当にありがとう。

【中学生時代】
 顧問の先生へ。サッカーを本気で向き合える環境を与えてくれてありがとうございました。大学までサッカーを続けられたのは、当時の本気で向き合う機会を与えてくださったおかげです。
 同期のみんなへ。みんな思春期真っ只中で、イライラしながらサッカーしていた時もあっただろうけど、最後までみんなとサッカーできてすごく楽しかった。ありがとう。

【高校生時代】
 三好監督へ。入部当初からトップチームで活動できて、より高いレベルでサッカーをさせてくれてありがとうございました。
 山本監督へ。正直うまい選手ではなかった僕をずっと使い続けてくれてありがとうございました。最後は山本先生を全国に連れて行くという目標を達成できずに終えてしまいましたが、僕は悔いのない高校サッカーを実現することができました。
 阿岸コーチ、宮村さんへ。時には厳しく、時には優しくを最後まで体現していただきました。阿岸コーチの10周走のコーン置きと、宮村さんとの整骨院への通院は今でも景色が浮かびます。
 同期のみんなへ。僕のことを信頼してた人は少ないだろうけど、最後までついてきてくれてありがとう。できれば最後の選手権まで数人残ってほしかった。ゆうへいとかそうたとか。。

【大学】
 星さんへ。僕が顎を骨折したあの時、すぐに駆けつけてきてくれたのをギリ覚えています。骨折して以降、たくさんいじっていただいてありがとうございました。顎パンチ未遂だけは勘弁です。

 将磨コーチへ。去年からずっと使い続けていただきました。1部昇格して恩を返すことができませんでしたが、ここまで楽しくのびのびとサッカーができたのは間違いなく将磨コーチのおかげです。最後までビルドアップ成長しませんでした。すみません。

 俊くんへ。1番お世話になったコーチです。ここで話すと長くなってしまうので、飲みに行った時にお話ししますが、一言言うと、俊くんなおかげで最後まで本当に成長できました。たまに死ぬほどキツい練習もありましたが、俊くんの厳しさや優しさや熱さは苦しい状況の時の助けになっていました。

 後輩へ。まずは関東リーグという舞台を残せなかったこと、アイリーグでは1部に上げれなかったこと、最終学年の身として本当に申し訳ない。でも、これが僕たち4年生が持っていた最大限の力だったと思う。復帰・昇格を目指すのであれば、想像以上に力を発揮しなければきっと成し得ない。ただ、君たちならできると信じている。大好きな後輩たちを陰ながら応援しています。今までありがとう。

 同期へ。本当は瀬聖みたいに一人一人に書きたかったけど、あまりにも長すぎる文を書いてしまったので、ここでは割愛させてもらいます。本当に濃い四年間を過ごせたのは、みんながいたからです。毎日が幸せでした。TOPもBも経験したからこそ、全員と話す機会があって、一人一人のいいところいっぱい知れました。4年間ありがとう。お疲れ様。

【家族】
 送迎やら合宿やらスパイクやらでいろんなことでお金と時間をかけてしまいました。でも僕は申し訳ないとは思っていません。ここまでサッカーを自由にさせてくれたことへの感謝一つです。本当にありがとうございました。

【アルバイト先】
 いろんなことでご心配、ご迷惑をおかけしました。部活の仲間だけでなく、アルバイト先の方々とすごく仲良くさせていただいて、社会に出る難しさだけでなく、楽しさも学ぶことができました。あと少しの時間ですが、これからもよろしくお願いします。



第6章 楽しさ半分、悔しさ半分
 長々と文章を書いてしまったが、結局何を言いたいかというと、これまでのサッカーは、

 「楽しさ半分、悔しさ半分」

だったということ。

 きっと何をしていても楽しいだけではなく、悔しいだけでもなく、どちらも半分こなんだと思う。

 悔しいと思えるから頑張れる。
 楽しいと思えるから頑張れる。

 それが仕事にしろ趣味にしろ、どんなことも一緒だと思う。

 だからこそ、僕のサッカー人生は終わったが、これからの教員としての未来を「楽しい」と「悔しい」の両方の気持ちを大切にして、日々を過ごしていきたい。




 楽しさだけではつまらない。
 悔しさだけでは心が折れる。




 「楽しさ半分、悔しさ半分」






 明日でBチームの卒業ダイアリーは終了です。Bの終わりを飾るのは「かいとはせがわ」こと長谷川開人くんです。
 はせへ。
 今年1年はBのキャプテンとして、チームを支えてくれてありがとう。キャプテンなんかやったことない、キャプテンらしいことできないなんて言ってたけど、なんだかんだはせが1番キャプテンにむいていたと思うよ。キャプテンシー開花するの遅かったね。
 そんなはせに質問です。
 はせはすごく可愛い顔をしているので、さぞかし数多の女性をトリコにしてきたでしょう。トリコにするコツとかあれば教えてください!
 こうじより。

#紫志尊々 #jufa #大学サッカー

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