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『財産』4年 大川佳

 まず始めに、平素より東京学芸大学蹴球部への多大なるご支援とご声援を賜りまして、誠にありがとうございます。今シーズンの結果をもちまして、都・県リーグへの降格が決まってしまいましたが、頼もしい後輩たちが必ず皆様に良い報告を届けてくれると信じていますので、今後とも弊部への変わらぬご支援とご声援をよろしくお願い申し上げます。

 お世話になっております。
 颯太よりご紹介を頂きました、A類保健体育の大川佳です。


 今日は、12月21日。

 私にとっては、非常に思い入れのある1日です。
 ちょうど1年前の今日、次の日に控える手術に向けて不安と緊張で押しつぶされそうになりながら入院をした日です。
 そういった日に卒業diaryを担当することになり、どこか勝手に縁を感じている次第です。

 私も思いを言葉にすることが得意ではないので、非常に長く拙い文章になってしまいましたが、心を込めて精一杯書きましたので、最後まで読んで頂けたら幸いです。



 「大学でサッカーを続けるつもりはなかった」

 私は大半の蹴球部員と違い、東京学芸大学への進学希望の理由の中で、「サッカーをやりたいから」という思いはほとんどなかった。高校時代、進路を決める際に、教師という職業に魅力を感じ、やるからには最高峰の大学で学びたいと思い、地元の大学と悩んだ末に本学への進学を決めた。
 そもそも大学でサッカーを続けることなど全く考えておらず、学芸のサッカーが強いことも恥ずかしながら知らなかった。

 そして、学芸の保体科の2次には実技試験があった。学芸のサッカーのレベルを知らなかった私は、当日強豪校出身の受験生が大勢いる周囲に度肝を抜かれながらも、何とか無事合格を掴むことができた。
 今思えば、この実技試験が分岐点だったかもしれない。今まで経験したことのないようなレベルのサッカーが新鮮で、どこかワクワクした。

 合格を高校のサッカー部の先生に報告すると、「学芸に行くんだったらサッカーを続けた方がいいぞ」と言って頂いた。
 そして両親からは、「とりあえずやってみたら?ダメだったら辞めればいいんじゃない?」と言ってもらった。
 そういった後押しにより、私は蹴球部への入部を決心した。


 そして、心を躍らせながら1年生の夏頃に活動が始まって間もなく、地獄を見た。
 自分がサッカーを何も知らないこと、何の技術もないことをこれでもかと痛感させられた。これまでの自身は過信であったと分かり、完全に鼻をへし折られた感覚だった。
 また、最初は前線だったが全く通用せず、コーチの助言もあり左SBにポジションを移した。自分なりに一生懸命練習したが、当然上手くいかない。当時はCチームがなく、Bチームで活動していたが、立ち位置はBサテサテサテくらいだった。

 ただ、そんな辛い状況で心が完全に折れそうな時でも何とか続けられたのは、陸斗の存在が大きかった。陸斗も自分と同じような立ち位置で、お互い1年生の時にIリーグのベンチ入りさえ1回も果たせなかった。
 そういった中で、愚痴を吐きながら、色々と考えを共有したり、切磋琢磨したりできる仲間がいて本当に救われた。


 そういった仲間に支えられながら2年目が始まった。ここで転機が訪れる。
 Bチームのコーチに遼太郎くんが就任し、「佳のポジションが分からない」という衝撃的な言葉とともに、このようなやり取りがあった。

 「どこかやってみたいポジションないの?」
 「そうですねー、センターバックとか興味なくはないですけど、、、」
 「ああ~いいじゃんいいじゃん!やってみなよ!」

 このようにして、CB生活が始まった。
 コンバートのようなかっこいいものではなく、事実上2回目の戦力外通告であった。
 ただ、最初は戸惑いがあったが、すぐにその提案を受け入れた。もともと試合に絡めていなかったし、失うものは何もなかったため、新たな挑戦をしたいと思った。

 そして、Iリーグの初戦で初めてベンチ入りすることができた。
 去年までの主力が大幅に抜けたからこそのベンチ入りが明らかだったが、夢にまで見ていたので嬉しかった一方で、試合には出場できず悔しさがふつふつと込み上げてきた。

 どういった状況であれ、腐らず続けることの重要性を噛みしめながら、とうとう前期の筑波大学戦でIリーグ初出場をスタメンで飾った。
 本当に清々しかったし、やっぱり試合に出てナンボだなと強く実感した。

 そして時は流れ、自分の大学サッカーでの1番のターニングポイントがやってきた。
 新人戦の明治大学戦。
 CB歴はわずかながらスタメンで使って頂いた。あの時のスタメンは自分と克明以外トップチームの選手で、自分はめちゃくちゃ緊張していた。
 その時、なる君が声をかけてくれた。

 「今回スタメンなのは選手が足りないからじゃないぞ。評価してもらってのスタメンだから頑張れ」

 この一言でスイッチが入った。
 周りを見渡せば、隣にはヤスがいて、前には健太もネオもいる。
 こんなにも安心できて、幸せな環境はなかった。ほとんどが初めて一緒にプレーする選手だけど、周りが助けてくれるだろうと、無我夢中に全力でプレーした。
 結果的に負けてしまい、内容も防戦一方だったが、確かな手応えもあった。何より楽しかった。

 その後も新人戦にはコンスタントに出場でき、新人戦のプレーを評価されてか、トップチームに上がることができた。とても嬉しかったし、やる気に満ち溢れていたが、当然覚悟はしていた。
 ただ、想像よりも遥かにトップチームのレベルは異次元だった。
 何にも出来ない。木端微塵という言葉がふさわしいだろう。自信もなくなり、消極的になる。練習中に、ある先輩から、「やる気ないなら帰れよ」という漫画の世界のような言葉も言われた。

 当然関東リーグのベンチ外であることは言うまでもないが、一方でそこまで悲観はしていなかった。ベンチに入れるようなレベルにないことは自分が一番よく分かっていた。
 当時は練習に行くことも辛かったが、今振り返ると最も充実していた期間だったに違いない。間近でスーパーな選手のプレーを見て、感じることができていたし、そういった環境の中で揉まれ続け、徐々にではあるが自分の成長を実感できていた。


 そして今年こそはと意気込んで始まった3年目、本当に辛いのはここからだった。
 チャンスがあるのに掴み切れない、届きそうで届かない、もどかしさとやり切れない気持ちで一杯だった。去年の圧倒的な選手層とは異なり、絶対的な存在がいない中で出場機会を得られないことが何よりも悔しかった。
 関東リーグ初戦の日本大学戦など数試合にはベンチ入り出来たものの、試合には出場できず、その後はベンチ外が自分の定位置となった。

 そういった中で、前期の日本体育大学戦は非常に印象に残っている。
 その試合もベンチ外が濃厚だったが、試合には出られなくてもいいから何とかベンチ入りをしたかった。
 理由は、地元での開催だったからである。会場1つで、やる気が変わるようでは話にならないが、当時の自分はそうだった。両親に、高校時代の恩師に、地元の友達に、「俺、頑張ってるよ」という姿を見てほしかった。
 結局、ベンチ外となった。今でも当時の光景と感情をありありと覚えている。
 ベンチ外組が居残り練習をやることになったが、自分は完全に不貞腐れていた。
 今は馬鹿なことをしていたなと笑えるが、あんなにも悔しいと思ったことはこれまでなかった。自分の感情をあのような態度に出してしまったことは反省しかないが、ずっとその悔しさをもち続けることができていればなとも思える。
 徐々にベンチ外に慣れてしまい、悔しさという感情が消えていったというか、消そうとしていたという表現の方が正しいかもしれない。

 そんなこんなで、前期が終わり中断期間に行った練習試合で怪我をし、3か月のリハビリを余儀なくされた。
 しかしながら、自分は心のどこかでホッとしていた。
 なかなか試合に絡むことができず、頭もこんがらがっており、モチベーションも下がり続けていたため、少し自分を見つめ直す時間を求めていたのかもしれない。

 自分と向き合いながら懸命にリハビリを続け、何とか3か月後に復帰ができた。
 そう思った。

 部分復帰の初日、簡単なハンドパスでのボール回しの練習中にその瞬間は訪れた。
 ボールを受けようとスプリントをかけた状態から減速をかけた時に、左膝が「グニャ」っと潰れた感覚だった。

 数日後に病院へ行き、先生からの診断はこうだった。



 「前十字靱帯断裂および内側半月板損傷」



 サッカー選手としては、致命的な怪我だった。
 怪我をした段階で予想はしていたが、改めて先生から「手術が必要です」と言われると、涙が止まらなかった。
 その言葉をかけられた時、診察室の自分の後ろには父がおり、そっと肩に手を置いてくれたが、決して振り返ることはできなかった。

 今回もまた心が折れそうになったが、それでももう一度サッカーをやりたいという思いが自分を奮い立たせた。
 それだけでなく、同期や先輩、後輩からの言葉もすごい力になった。

 手術前のリハビリも懸命に取り組んだ。
 手術前に瀬聖が送ってくれた応援メッセージにも励まされながら、無事手術を終え、また長い長いリハビリ生活が始まった。


 ここからは、10か月に及ぶ地味で単調なリハビリが続くため、引退前の復帰まで割愛する。


 そして何とか、引退まで1か月を残し、完全復帰することができた。
 結局、復帰後は関東リーグのベンチ入りさえ叶わなかったが、正直そんなものはもう気にならなかった。

 この怪我を通して、1番の学びを得ることができた。
 それは、サッカーは最高に楽しいものであるということ。

 復帰後のサッカーはとにかく楽しかった。サッカーを始めた時のような気分だった。
 1対1でぶち抜かれようが、自分のミスで失点しようが、サッカーをやれているそれ自体が幸せだった。

 激しい競争の中で忘れてしまっていたが、大切な原点に立ち返ることができた。
 また、リハビリ期間を通して成長できたことも確かである。
 だからこそ、今ではあの怪我をポジティブに捉えることができている。


 色々と紆余曲折を経たが、本当に蹴球部に入って良かったと心から思う。
 中学で辞めようと思っていたサッカーを、高校でこそ最後にしようと思っていたサッカーを、ここまで続けてきて本当に良かった。

 蹴球部に入ることで、本当に多くを犠牲にしてきた。
 食事にも気を遣った、お酒だって全然飲めない、遊びにも行けない、旅行だってほどんど行けなかった。
 ただ、そんなもん今後の人生でいくらでもできる。
 それらとは全く比べ物にならない程貴重な経験と学びと、大切な思い出と仲間ができた。
 この4年間にしか出来ないことに没頭できて、幸せだった。

 欲を言えば、関東リーグに1回は出場してみたかった。
 というよりも、皆の応援を受けながらプレーしてみたかった。
 恐らく、同期の中で唯一応援を受けながらプレーしたことがないんじゃないかな。応援が選手によっていかに心強いものか体感してみたかった。
 でも、たらればの話だからこの辺にしておこう。



 サッカー人生を通して学んだこと全てを言葉にすることはできないが、自分の財産として必ず今後の人生の多くの場面で活かすことになるだろう。



 最後に、この場をお借りして、お世話になった方々への感謝を述べさせて頂きたい。


【両親へ】
 幼稚園から大学まで、何不自由なくサッカーをやれたのは間違いなく2人のおかげです。
 1番の理解者であり、1番のサポーターでいてくれて本当にありがとう。
 お父さん、高校まで毎試合ビデオを撮ってくれてありがとう。試合後にビデオを振り返り、自分のプレーに浸るのが何よりの楽しみでした。
 お母さん、高校時代のお弁当と術後1か月間の送り迎えとご飯をありがとう。特に、術後久しぶりに食べ続けることのできた「お袋の味」は最高でした。
 これまでのたくさんの感謝を結果で恩返し出来ずに本当に申し訳ない。これからの人生で、少しずつ感謝を伝えさせてください。まずは、今度の帰省で。
 今後もまだまだお世話になります、よろしくお願いします。


【同期】
 本当に出会えて良かった。最高の仲間が全国に26人もできた。
 結果が出ないながらもチームの代表としてゲームの中で奮闘する同期、出場機会が多くないながらも常に自分にベクトルを向け成長しようとする同期、選手のために声を枯らしながら最高の応援を届ける同期、自分に出来ることを考えチームに影響を与え続けた同期。
 こんなにも素敵でかっこいい仲間は他にいないだろう。皆と出会えたこと、それ自体が何よりの喜びです。


【トレーナー陣】
 トレーナーの皆には本当にお世話になりました。怪我が多かった自分はリハビリの期間も長く、皆と一緒にいる時間が長かった。怪我を乗り越えることができたのは、皆とのリハビリと他愛もない会話のおかげです。本当にありがとうございました。
 また、リハビリや診察で担当して頂いた病院の先生方にも大変お世話になりました。ありがとうございました。


 他にも、スタッフ陣、先輩方、後輩たち、友達、これまでお世話になった指導者の方々など、感謝を伝えたい人があまりにも多くいらっしゃるため、ここでは割愛させて頂きます。
 皆様には個別にお伝えできればなと思います。



 改めて、私のサッカー人生を通して出会ってきた全ての方々に感謝申し上げます。
 本当にありがとうございました。



 最後までお読み頂き、ありがとうございました。



 さて、明日はネオ(柿本音王)です!
 ネオのプレーでこれまで多くの人が心を鷲掴みされてきましたが、卒業dairyでも静学産のテクニックを遺憾なく発揮し、皆様を魅了してくれることと思います!
 是非、ご期待ください!

#紫志尊々 #jufa #大学サッカー

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