OM06 : 白いうさぎの穴

 電車が到着する音が聞こえる。続いてドアが開く音、到着アナウンスが響く。降りてきた人がホームを歩く足音が、だんだん遠くなっていく。
 目を開けると、改札口を出て行く人影が見えた。
 始発が動き始めたようだ。
 体を起こす。駅構内のベンチで寝ていたので、首や肩や腰が痛む。立ち上がって改札口まで歩く。脚がだるい。
 白い改札機はなかった。
 改札機の手前に置かれたチラシ棚には、沿線情報、ポイントカード、系列スーパーの案内が並んでいるが、一枠だけ空っぽだ。一昨日、その枠にあった最後のチラシを私が手に取ってから、補充されていない。
 
 一昨日、ひとりで居酒屋の兎亭に寄って軽く飲み食いした。帰り道、踏切の遮断機が降りていた。
 この駅は地上に、1番線と2番線のホームが線路を挟んで向かい合っている。「二」の字でいうと、それぞれの横棒の右端に改札口がある。私は「二」の右下のほうから歩いてきたが、一画目のホームを使うためには踏み切りを渡る必要があった。けれど駅のすぐ横の踏切はなかなか開かないものだ。
 私はぼーっと踏切で待つのが好きではない。だから「二」の二画目の改札口から駅に入った。
 改札機を通ると、すぐ横のチラシ棚に広告や案内が並んでいた。見慣れないチラシがあったので手に取る。スマホのバッテリーが切れていたので、暇つぶしにしようと思ったからだ。
 向かいのホームに移動するには、階段を上がる必要がある。上階には3番線と4番線のホームがあるので、この駅の形状は正確には「二」ではなく「井」で、下階ホームが横棒、上階ホームが縦棒になっている。
 下階で線路を挟んだ向かいのホームに移動するには、上階に行ってホームを移動し、別の階段を降りる必要がある。
 電車に揺られながら、仕事のことを思い出して気分が悪くなった。不安と不快が湧いてきて、手が震えてチラシの字がうまく読めない。手をおろす。反対の手で吊り革を握り、外の景色を眺めて、なんとか気分をそらそうと努めるけれど、だんだん視界が狭くなる。
 すると、左に立っていた女性が突然声を上げた。
「痴漢です!」
 周囲の乗客が騒然となり、私も慌てて周囲を見渡す。隣の女性が私の腕をつかんで、私をにらんでいる。周りの乗客たちも私をにらんでいる。
 ドアが開いて、その女性や近くの乗客に押されたり引かれたりして、下ろされる。それぞれが口々に何か大きな声で叫んでいるが、頭に入ってこない。
 駅員がやってきて、何か言った。人々が静まるが、私をにらんだままだ。
 駅員と私の間に、誰かが割り込んできた。見覚えがある。さっきまでいた居酒屋の兎亭のカウンターで、私の右隣で飲んでいた男だ。話をしたことはない。
 右隣の男が駅員に話しながら、自分のスマホの画面を見せている。
「その人、痴漢じゃありません」
 私が痴漢と間違われていたのか。それで、知らない連中ににらまれて、腕をつかまれて、駅に下ろされたのか。
 右隣の男が話し続けている。
「ほら。このチラシが、隣の人に当たってるんです」
 駅員は私に気をつけてくださいねと言いい、その場は解散になった。周りの人たちは、私をにらみながら離れていき、電車が来るのを待っている。
 話をしたこともない右隣の男のおかげで助かった。
「どうもありがとうございました」
「大変でしたね。手が震えていたようですが」
「気分が悪くなると、震えてしまうんです」
「それでチラシが隣に人に当たったんですね」
「ところで、兎亭で見かけますね」
「ええ。それでちょっと気になって。ほっとくのも、と思って」
「ありがとうございました」
「いえいえ」
 私は何度も礼を言ったあとで、気づいた。
「あの、どうして動画を撮っていたのですか?」
 それは盗撮ではないのか。
 右隣の男は
「記憶を無くすんですよ」
 と言った。
 彼は以前に深酒をして、帰り道の記憶がほとんどない状態で帰宅し、翌日、目を覚ましたという。朝のニュースで、自宅付近で深夜、暴行事件があったと報道されていた。そのとき、もしかしたら自分がやったのでは考えてしまい、しばらく外に出るのが怖くなったという。
 その恐れを払拭するために、酒を飲み、記憶があいまいになり、さらに怖くなるというサイクルを繰り返すようになった。
 それで、帰り道を撮影するようになった。電車の中では人を撮らないで、窓の外を撮るようにしている。さっきも窓の外を撮っていたけれど、ガラスに写り込んだ私の手元が撮れていた。そういうことを、右隣の男は言った。
 嘘をついているわけではないだろう。だとしても、盗撮を疑われるのではないか。いや、それでも、私は彼のおかげで助かったのだ。わざわざ咎めなくてもいい。
「そうでしたか。いや、ほんとにありがとうございます」
「いえいえ」
 次の電車が到着すると、さっきの女性やまわりの乗客たちが乗り込んでいく。私はトイレに寄っていくと言って、右隣の男が乗車するのを見送った。
 それが一昨日のできごと。
 昨日はまっすぐ家に帰ろうと思った。仕事が終わってカバンの中を整理していると、チラシが出てきた。カラフルなデザインに、「いつもの駅をゲーム会場にしよう!」というポップな文字が踊っている。その下には、アプリのダウンロード方法や使い方の説明が書かれていた。
 ゲームやアプリにはそれほど興味がない。でも、職場で新しい技術やサービスが話題になることが多いので、自分の興味とは関係なくアプリを試すようにしている。
 チラシのアプリをインストールし、設定を済ませ、クレジットカードの番号を入力する。アプリは二次元コードと、最寄りの駅に行くようにと指示を表示している。
 駅まで歩いていく。
 いくつか並んだ改札機のうち、一台だけが白くて大きい。いままで気にしていなかったけれど、ICカードのタッチとは別に、二次元コードを読み取るパネルがある。アプリの二次元コードを表示して、パネルに向ける。
 アプリからチャイム音がする。
 ——脱出ゲームを開始しました
 と表示されている。
 そこに電車が到着した。アプリの画面には変化がない。とりあえず、電車に乗る。
 すると、スマホが大きな警告音を発した。ビー!ビー!
 音量を下げるボタンを連打するが、警告音は続く。
 まわりの乗客たちが、迷惑そうにこちらを見る。
 電車から降りると、警告音は鳴り止み、ドアが閉まり、電車が発車した。
 アプリを見る。
 ——駅から脱出してください。経過時間 1分17秒
 引き返して改札口に行く。
 白い改札機がない。
 入場したときに使った大きな白い改札機が見当たらない。あるいは私は、こちらのホームの改札口ではなく、反対側のホームの改札口から入ったのだろうか。記憶があいまいだった。
 上階に上がってホームを歩き、下階に降りて向かい側の改札口に行ってみた。そこにも白い改札機はない。灰色の改札機にスマホをかざすと、ゲートが閉まり、警告音が鳴った。
 私は窓口の駅員に「出られなくなったのですが」とアプリの画面を見せた。駅員はしばらくそれを眺めて、いったん奥に引っ込んだ。先輩だか上司だかに相談しているようだ。しばらくして戻ってきた駅員は、「利用規約のとおり自分で解決してください」と言い、その後は一切私の目を見なかった。
 私はその場にしばらく立ちすくんでいたが、ほかの客の邪魔になることに気づいて、その場を離れた。
 利用規約に従ってくださいとは、ずいぶん本格的というか画一的というか、徹底しているなと思った。
 私は駅構内を歩き回った。ところどころにドアがある。。倉庫なのか、事務所なのか、あるいは電気設備なのか、とにかくスタッフ用のドアだ。そのうちのひとつに暗証番号を入力する方式のロックがかかっていた。
 脱出ゲームでは、近くにヒントになるような数字が書かれていたり、メモが落ちていたりするものだ。私は周りを探し回った。自動販売機の下を覗き込んでいると、通りかかった子どもが不思議そうにこちらを見ていた。その親が「速く歩きなさい」と子どもをせかし、二人は足早に立ち去った。私は自動販売機の下をさらに探してみたが、埃がたまっているだけだった。
 ふと思い出して、カバンのポケットからチラシを取り出した。右下に小さく「ヒント:3141」と書かれている。
 ドアの暗証番号ボタンを押していく。3、1、4、1、OK。 その瞬間、ピー、ピー、ピーとエラー音が鳴り始めた。小さな音だが、鳴り止まない。
 さっきの駅員がやってきて、何か操作をするとエラー音がやんだ。そして、「利用規約にあるとおり、関係者以外立ち入り禁止のエリアには入らないでください」と目を合わさずに言って、立ち去った。
 他に出口がないか探し回ったが、ドアには鍵穴がついていた。もう一度、自動販売機の下に手を突っ込んでみたが、湿った埃がまとわりついただけで、鍵は出てこなかった。
 やがて終電が出ていった。駅員は私が存在しないかのように、目を逸らし、終業作業をする。それからシャッターが閉まった。
 私はホームのベンチに座り、いつの間にか眠っていた。
 
 始発が動き出して、目が覚めた。日が変わったけれど白い改札機は見当たらない。
 この駅には売店がない。小さなワッフル屋はまだ開かない。私は自動販売機で買ったカロリーの高そうなジュースを飲んで、空腹を満たした。
 ぼんやりした頭で、駅の中を歩き回る。時間や空間の感覚があいまいになってくる。時計を見るたびに、時間が経ったようにも経ってないようにも感じる。同じところを歩いていようにも、見知らぬところを歩いているようにも感じる。
 電車に乗ろうとすると警報が鳴るし、改札口からも出られない。
 線路に降りられないだろうか。上階にはホームドアがあり、線路に降られない。下階のホームはどうだったか。のろのろとエスカレーターに乗って降りてみた。
 ホームドアがない。
 私はゆっくりとホームの端に近づいていく。駅員や乗客に勘づかれないか、周りを見回す。誰も見ていない。
 向かいのホームを見た。みんな手元のスマホを見ていて、私のほうを見ていない。駅員はどうか。改札口横の駅員室を見た。そのとき、白い改札機が目に入った。
 向かいのホームの改札口には、白い改札機が設置されている。
 私は急いで上階のホームに駆け上がり、反対側のホームに移動した。
 けれど白い改札機はない。向こうから見たときにはあったと思ったのだけれど。私はさっきまで立っていたホームの、その端にある改札口に目をやる。
 白い改札機が見える。
 私はまた階段を駆け上がり、反対側のホームに移動する。白い改札機はない。
 何度もホームを移動していると、反対側のホームの改札口に白い改札機が見えたり、見えなかったりすることが分かった。
 私はホームを移動する経路と、白い改札機が見えたか見えなかったかをノートに書き出した。何度も移動し、いくつもの経路を書き出した。
 3番線、1番線、4番線、1番線と移動した直後には、必ず白い改札が見える。その後は経路によって、白い改札機が見えたり見えなかったりする。
 ヒントの3141とは、この経路のことではないか。この順番で移動することが、脱出経路が出現するきっかけになっているのではないか。
 3 → 1 → 4 → 1
 で必ず向かいのホームに白い改札が見える。
 次は、3または4だ。そのあとは、1または2。
 3 → 1 → 4 → 1 → 3 → 1 →…
 3 → 1 → 4 → 1 → 3 → 2 →…
 3 → 1 → 4 → 1 → 4 → 1 →…
 3 → 1 → 4 → 1 → 4 → 2 →…
 と、組み合わせが続いていく。
 私は向かいのホームに白い改札機が見え続ける経路を探していった。
 十五回の移動を連続しても、白い改札機が見える経路にたどり着いた。
 だが、次の移動で白い改札機は見えなくなった。
 やりなおし。
 さらに悪いことに、パターン通りに移動しても白い改札が見えなくなった。さっきまでは必ず見えていたのに。
 再びメモをしながら移動をし続けて、数時間たった。
 腹が鳴る。
 ワッフル屋で、ワッフルとコーヒーを注文して、小さなイートインスペースでメモを眺める。
 3141に続く正解経路は、一時間ごとにリセットされているようだ。一時間以内に経路を発見しないといけない。
 足の裏を軽くマッサージして、靴を履き直して、紐を結ぶ。
 そして3141から続く経路を探していく。
 もう何時間もそうやっている。一時間というは実に微妙な長さで、いいところで時間切れになってしまう。何度かワッフルを買うたびに、店員はまた来たのかという表情でこちらを見るが、何も言わない。
 そしてついに見つかった。
 今、立っているホームの端の改札口に、白い改札機がある。
 スマホのアプリを起動し、二次元コードを表示させた。これでやっと出られる。
 大声が聞こえたので、振り返る。向かいのホームに人だかりができて、誰かを取り囲んでいる。見覚えがある。兎亭の右隣の男だ。
 喧騒のなかから「盗撮」という言葉が聞こえた。
 右隣の男は、自分が酔っているときの記憶をなくしている強迫観念があって、帰り道を撮っている言っていた。人を撮ると盗撮になるので、景色を撮るようにしているとも。けれど、人が写り込むこともあるし、そのおかげで私は助かった。
 駅員が、右隣の男のすぐそばに立つ。「話は駅員室で聞きます」といった声が聞こえてくる。
 行ってはだめだ、と私は思った。他人を盗撮したわけでなくても、駅員室に行ってはいけない。状況があまりにも不利だ。
 一昨日は、私は助けられた恩もあって、撮影については突っ込まなかった。でも普通は咎められるし、盗撮を疑われるだろう。
 私は階段を駆け上がる。
 
 右隣の男を駅から送り出したときには、二時間は経っていた。おかげで3141に続く正解経路がずいぶん変わってしまって、私の脱出ゲームはまたふりだしに戻った。
 それでも白い改札機がふたたび現れ、やっと私は改札口から出られた。遅い時間だったけれど、駅に泊まらずに済むと思うと開放的な気分になる。
 駅前の商店街を歩いていく。左の道に曲がり、その先の左側に兎亭がある。入っていつもの席につく。右隣には誰もいない。私はひとりで祝杯をあげる。

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