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OM11 : 鷺の恩返しと霧の秘密

あらすじ
灯(あかり)は雑用ばかりの仕事に不満たらたら。電車を降りて迷いこんだのは、タイムスリップした明治時代の村か、異世界か。伝説の鷺の再来だと噂される伊吹は、灯に工房の手伝いを頼む。謎の物質である〈霧〉がビッグバンとビッグクランチを繰り返す小宇宙だと気づいた灯は、科学の知識で機械を改善し、サブスクビジネスのアイデアを形にして村を発展させていく。だが気づかないうちに、伊吹と村には危機が迫っていた。

 あたしは、水車小屋の奥にある大きな機械の前にしゃがんだ。作務衣は空手や柔道の道着みたいで、初めてだから少し落ち着かない。でも、動きやすさは抜群だ。ピストンやシャフトや歯車が組み合わさった、この大きな機械には埃が積もっていて、どこから手をつけたらいいのか迷った。あのころのことを思い出す。
 新卒で入った会社で、いつも掃除ばかりさせられていた。女性の、といちいち形容されるのが鬱陶しかったけど、それでも自分はエンジニアとして活躍できると思ってた。でも実際には止まった機械の中に手を突っ込んで、汚れを取ることが仕事のほとんどだった。男も女も関係なく、新入りの仕事は掃除と決まっていた。
「どこでも変わんないな……」
 掃除を進めていると、がたつく歯車を見つけた。手で軽く触れると、歯車がカタカタと揺れる。これじゃあ振動がすごいだろう。あたしは作務衣の袖をまくり上げる。
 軸に負荷を与えるんだよね。あたしは職場のおじさんに教えてもらったことを思い出しながら、手元にあった木の棒を取り出した。万力で木の棒を固定して、歯車の軸に押し付ける。
 これでいいかな?
 あたしは歯車をゆっくり回してみる。負荷をかけると、歯車が互いに当たったときに、逆方向へのぶれが抑えられるからね。ただし、負荷をかけすぎると効率が悪くなる。
 慎重に木の棒を調整しながら、歯車を回してみる。今度はスムーズに回転し、音もなく動くようになった。
 うん、これで大丈夫。満足、満足。機械の掃除と修理、ひとりで淡々とやるがいい。おじさんに口を出されると萎えるんだよね。
 掃除と修理を終えたところで、伊吹さんが戻ってきた。彼女は三十歳くらいだろうか。背が高くてがっしりしてて、女子ソフトボール部にいそうな感じだ。作務衣が似合っている。
 伊吹さんは歯車のガタつきがおさまっているのを見て、少し驚いたようだ。目を細めて観察して、原理が分かったらしい。
「あんた、すごいね。これで軸をもっと速く回せる」
 伊吹さんは感心した様子で言った。
 こんな風に褒められるのは、やっぱり嬉しい。
「あの、伊吹さん。この機械の動力源って何なんですか? 外の水車とは繋がっていませんよね?」
 さっきから気になっていた。
 伊吹さんは少し考えた後、棚から小さなシリンダーを取り出した。中には、黒い煙のような、でもどろっとしたようなものが渦巻いている。
「これが動力源。私は〈霧〉って呼んでるけど、なんだか得体が知れない」
 伊吹さんはシリンダーを手に持ちながら説明を続けた。
「〈霧〉を筒に入れて、外から押す。すると縮んだ〈霧〉が押し返してくる。その力を使って機械を動かすんだ」
 あたしはシリンダーを覗き込みながら、なんだか魔法みたいだと思った。
「灯、ちょっと出かけよう」
 伊吹さんはあたしを連れ出した。
 やぐらは工房から少し歩いた先の草むらにある。やぐらといってもそんな高くない。電車のホームくらいの高さだ。周りは一面の緑で、静かだ。この不思議な世界に迷い込んで、まだ一日しか経っていない。

 あたしは仕事の後でいつもの電車に乗っていた。窓に映った疲れた自分の顔を見て、昔のことを思い出してた。幼いころに宇宙に興味を持って、理学系の大学に進んだんだけど、成績はあまりよくなくて、大学院進学とか研究所に就職とかはぜんぜんできなくて、小さな部品メーカーに就職することになった。
 最初の仕事は帳簿をつけたり、設備の掃除ばかり。しばらくして、ようやく調整を任されるようになったけれど、やりがいとかゼロ。毎日、無愛想なおっさんに指示されてるだけ。毎日が単調で、ただ時間を埋めるだけ。もちろん給料は出るんだけど。
 ドアが開いて、疲れた体を引きずるようにして、あたしは降りた。でも、次の瞬間、周りの景色に愕然とした。何もない原っぱのやぐらに立っていたのだ。
 その駅はホームが短くて、その車両のドアは開かないはずなのに、と気づいた。でももう遅い。ドアが閉まり、あたしは夜の知らない土地に取り残された。
 不安と恐怖で胸がいっぱいになりながら、あたしは周囲を見渡した。すると、遠くに明かりが見えた。勇気を振り絞ってその明かりの方へ歩いていくと、時代劇に出てくる農民みたいな服を着た人たちが集まっていた。
 彼らはあたしを見て驚いた様子だったが、なんとか言葉を交わして、自分が見知らぬ場所にいることに気づいた。途方に暮れていると、一人の女性が声をかけてくれた。それが伊吹さんだった。
「今夜はうちに泊まるといいよ。ここじゃ夜は危ないから」
 伊吹さんは優しく微笑んで、あたしを自分の家に招いてくれた。家は広くはなかったけれど、狭いながらも清潔で片付いていた。古い木の香りが漂い、暖かい行燈の光が心を落ち着かせた。伊吹さんは簡単な夕食を用意してくれて、あたしはその温かさに救われた気がした。
「今日はゆっくり休んで。疲れているだろうから」
 伊吹さんの言葉に頷き、あたしは布団に入った。あの電車に乗ってからの出来事が、まるで夢のように思えた。けれども、布団の中で一人考えていると、やはりこれは現実なんだと感じた。これからどうなるのか、不安と期待が入り混じる夜だった。
 翌朝、あたしは目を覚ますと、窓から差し込む日差しが部屋を明るく照らしていた。伊吹さんが用意してくれた朝食を食べながら、あたしは考えた。
 ここどう考えても異世界っぽい。それか、タイムスリップしたか。すぐに戻れなかったら、ここで生きていかないといけない。
「昨日はありがとうございました。あの、お礼に何かお手伝いできることありますか?」
 あたしは伊吹さんに尋ねた。
「じゃあ工房の掃除をお願いできるかな?」
 伊吹さんは少し驚いたようだったが、嬉しそうに答えた。
 あたしは工房に向かい、機械の様子を見ながら掃除を始めた。ここで自分の居場所を見つけるために、精一杯やってみようと決心した。

 伊吹さんとあたしはやぐらのある草むらに座る。伊吹さんは遠くを見つめながら、なんでもないように、でもちょっと硬い声で話し始めた。
「灯、あんたはどこから来たんだい?」
 あたしは昨日のできごとを思い出しながら、ゆっくりと話し始めた。
「いつもの電車に乗っていて、仕事が終わった後で疲れてたんです。ドアが開いて、降りたら……突然、何もない原っぱのやぐらに立ってたんです。その駅ではドアが開かないはずなのに……」
 伊吹さんは眉をひそめて首をかしげた。
「電車?」
 あたしはどう説明したらいいのか分からず、少し戸惑った。
「えっと……電車っていうのは、大勢の人を乗せて移動するための……うーん、馬車みたいなものかな。でも、馬じゃなくて機械で動くんです。」
「陸蒸気みたいなもの?」
「あ、蒸気機関車。それに近いです。でも動力源は蒸気じゃなくて電気なんです」
 伊吹さんの顔には理解できない様子が浮かんでいた。
「信じてもらえませんよね?」
 あたしは少し不安になって尋ねた。伊吹さんは首を振った。
「いや、信じるよ。ただ理解できないだけなんだ。灯が言ってることが、あたしの知らないことだから。なんだか別の世界の話みたい」
 頭がおかしいと思われているのか、不思議ちゃんくらいの扱いなのか。本当に信じてくれているのか、よくわからない。
 伊吹さんは微笑んで、あたしの肩に軽く手を置いた。
「私だって別の世界から迷い込んだら、あんたみたいに感じるんじゃないかな。うん」
 あるいは伊吹さんもあたしのような経験をしているのかも知れない。いや、さすがにそれはないか。電車とか知らないんだから。
「灯、あんたはここに来たばかりで不安だろうけど、少しずつでいいから慣れていけばいいよ」
 その言葉に、あたしは頷いて、また前を向いた。少しずつでも、この場所に慣れていこう。
 伊吹さんが立ち上がった。
「〈霧〉を取るから、ついておいで」
 やぐらから少し離れたところを歩いているうちに、木々が生い茂る小さな森にたどり着いた。伊吹さんは周囲を見回しながら慎重に歩く。
「ここだ」
 伊吹さんがつぶやき、一本の大木の根元にしゃがみ込んだ。手に持っていた桶を地面に置き、その周りを囲むように手をかざした。
「あの、伊吹さん。この〈霧〉って一体何なんですか?」
「この土地に古くからある、得体の知れないものなんだよ。〈霧〉って呼ばれてるけど、ほんとのところは〈霧〉じゃない。大きな力を得られるんだよ」
「大きな力?」
 どういうこと? 神様とかそういうの?
「この〈霧〉を筒に入れて押し込むと、押し返してくる。その力を使ったら水車がなくても物を動かせるんだよ」
「でも押し返してくるだけなら……」
 エネルギー保存の法則で、反作用はだんだん減衰していくだろう。永久機関じゃないんだから。でも、そんなことは、この世界では伝わらない気がする。
「ああ。バネみたいなものだと、だんだん弱くなるよね。でも〈霧〉はそうじゃない。何度押しても、同じような力で押し返してくる。昔の人たちはこの〈霧〉を、神のなんとかみたいに呼んでたみたいだけど、私は単なる自然現象だと思ってる」
 伊吹さんは桶に〈霧〉を少しずつ集めながら話を続けた。
「それじゃあ、この〈霧〉を使えば村の作業を楽にすることができるんですね」
「そうだね。でも〈霧〉は簡単には手に入らない。このあたりにたまに出てくるんだよ。周期とかはよくわからない」
 あたしは頷き、一緒に〈霧〉を桶に入れる。思ったよりも重い。この桶にいっぱいにしたら、持って帰るのはかなりきつそうだ。
 十日もすると工房での生活に少しずつ慣れてきた。今日もいつも通り、機械の掃除や調整をしていた。
 部屋にこもっていた伊吹さんが、ふたのついた桶を手に持って出てきた。あの〈霧〉が入っているんだろう。彼女の表情は真剣そのもので、何か大事なことをしている様子だ。めっちゃ気になる。
「あの、伊吹さん、何をしていたんですか?」
 伊吹さんは一瞬こちらを見たが、すぐに視線をそらした。
「ただの作業だよ、大したことじゃない」
 でも、その顔には何か隠しているし、疲れてるし。大丈夫なのかな。やばいことやってるんじゃないの。
「灯、今日はもう十分だよ。休んでいいから」
「あ、はい。お疲れさまでした」
 伊吹さんは静かに頷き、工房の奥の部屋に戻っていった。
 あたしは戸棚から顕微鏡を取り出す。今日、整理をしていたら出てきたやつだ。古いし、そんなに倍率が高いわけでもない。昼間は木屑とかを見ただけで済ませていたけど、もっと見るべきものがあることに気づいた。
 薬匙を持って、シリンダーから〈霧〉をちょっとだけ取り出し、顕微鏡を覗く。レンズ越しに見えるのは、無数の光が輝く広大な空間。小さな点のような光が瞬き、螺旋状に渦巻く帯が見える。これがただの〈霧〉の一部だなんて信じられない。もっと奥に空間が広がっているように見える。
「これは……小さな空間に折り畳まれた宇宙じゃないの? ビッグバンが起きて、全てが膨張し、そしてビッグクランチで収縮する。そのサイクルがこの〈霧〉の中で繰り返されている」
 顕微鏡を覗き込むと、光、いや星々の間には何かが崩壊し、また生成されている様子が見て取れた。まるで小さな宇宙が生きているかのように、ビッグバンとビッグクランチが繰り返されている。あたしが大学で学んだ理論そのものが、この小さな〈霧〉の中で現実となっている。
 ビッグバンとは、宇宙が一瞬で膨張する現象だ。想像を絶するエネルギーが一点から爆発的に放出され、すべての物質が四方八方に飛び出していく。初めてその概念を学んだときの衝撃を思い出す。広大な宇宙が、一つの点から始まったなんて。まるで夢物語のようだけど、実際にその理論が成り立っている証拠がここにある。
 ビッグバンが起こると、宇宙全体が急速に膨張する。そのエネルギーは途方もなく巨大で、物質は高温で高速に広がっていく。時間が経つにつれて、膨張は徐々に緩やかになり、星々や銀河が形成される。宇宙の成り立ちを目の当たりにしているような感覚に陥る。
 そしてビッグクランチ。それはビッグバンの逆で、宇宙が一気に収縮する現象だ。膨張していた宇宙が、ある時点でその動きを逆転させ、すべての物質が再び一つの点に集まり始める。まるで宇宙全体が息を吸い込むように、膨張が止まり、収縮が始まる。物質は再び高密度になり、エネルギーが集中していく。最終的には、すべてが一つの点に集まって終わる。
 これらの現象が、この小さな〈霧〉の中で繰り返されている。ビッグバンとビッグクランチ、宇宙の始まりと終わりが、一つの小さな空間で絶え間なく起こっている。宇宙の壮大さとその繊細さ。
 この〈霧〉の中で起こっていることを観察するだけでも、あたしは興奮と感動を覚える。無数の星々が生成され、また崩壊していく。そのサイクルが終わることなく続いているのを見て、宇宙の不思議と、その神秘に心が奪われる。
 ビッグバンとビッグクランチ、この二つの現象が織りなす宇宙のダイナミズム。それが、この小さな〈霧〉の中に閉じ込められている。宇宙の成り立ちを目の当たりにし、その壮大なサイクルを理解することができる。そして、この世界では、まだ誰もそんなことを知らない。
 この発見に、あたしは夢中になった。〈霧〉の中で起こっている現象は、あたしが大学で学んだ宇宙の理論を証明するものだ。これが本当にそうなら、とてつもない発見になる。
 元の世界での自分のことを思い出す。成績はよくなくて、研究所に就職する夢も叶えられなかった落ちこぼれの自分。
 でも、この世界なら。ここなら、自分で宇宙の成り立ちを証明できるかもしれない。もしそれができれば、あたしは有名人になれる。そんな夢が、あたしの中で大きく膨らんでいく。やってみよう。転生したら偉大な科学者になったって流れではないか。

「こんにちはー」
 大きな声が聞こえて振り返ると、工房の入り口に村の人が立っていた。表には荷車が置いてある。
「蕎麦粉を引き取りに来た」
 あたしは頷いて、工房の奥にある棚から、挽いた蕎麦粉の袋のところまで案内した。
「これでいいですか?」
 村人は嬉しそうに袋を受け取り
「ありがとう。これでまた蕎麦粉を売りにいける。工房の動力のおかげで、効率が良くて助かる」
 と、礼を言ってくれた。
 一緒に袋を荷車に積みながら、天気の話をする。特に共通の話題がない相手とは、天気の話がいい。完全に退屈だし、互いの特にもならないけど、気まずい雰囲気を味わわなくてすむ。あ、そうだ。共通の話題がある。いまなら話せる。
「そういえば、伊吹さんってすごい人ですよね」
 どんな反応が返ってくるか。
「うん、すごい」
「伊吹さんて、いつから村にいるんですか? 村の出身じゃないですよね」
「えーっと、いつだったかな。三年前くらいかな。ちょうど豊作の時期だったから。突然、女の人がひとりで村にやってきて、最初はみんな戸惑った。でも、すぐに治水や水車の建設を手伝い始めて、村を繁栄させてくれた」
 へぇ。じゃあ伊吹さんも、あたしみたいに他の世界から来たのかも。
「どこからきたとか、なんでここに来たとか知ってます?」
 村人は少し考え込んだ後、続けた。
「過去のことを話してくれない。でも、村では鷺伝説の姫の再来だと信じてる」
「鷺伝説?」
 あたしの問いに村人は頷き、話を続けた。
 昔、この地域には美しい姫がいた。常盤姫と呼ばれるその女性は、城主の側室で、非常に愛されていた。しかし、城主には他に十二人の側室がいたため、常盤姫への特別な扱いが他の側室たちの嫉妬と陰謀を生んだ。
 彼女たちは、城主に常盤姫が浮気をしているという嘘の噂を広めた。城主は最初はその話を信じなかったが、次第に心に疑念が芽生え、常盤姫への態度も冷たくなっていった。常盤姫は孤立し、心の支えを失っていった。
 絶望の中で、常盤姫は潔白を証明するために自ら命を絶つ決意をした。遺書をしたため、それを幼少期から大切にしていた白鷺の足に結びつけて放った。白鷺は、奥沢城に向かって飛び立ったが、ちょうどその頃、狩りをしていた城主が白鷺を見つけ、射落としてしまった。
 不審に思った城主が足に結びつけられた遺書を読んだとき、常盤姫の無実を知った。しかし、急いで城に戻った城主が見たのは、すでに自害した常盤姫と姿だった。城主は深く後悔し、彼女の霊を慰めるために、領内に弁財天を祀った。
 そして、白鷺が射落とされたその地には、後に鷺草が咲き誇るようになったという。鷺草はその美しい姿から、常盤姫の魂が宿っていると信じられ、村人たちに大切にされてきた。
 その話は知っている。通勤途中でスルーする駅の周辺の、寺だか神社だか、とにかく地元の地味な伝説だ。
「なるほど、だから村の人たちは彼女をそんなに尊敬しているんですね」
 村人は頷く。
「彼女のおかげで村は本当に助かってる。俺たちも、これからも彼女と一緒に村を守っていきたい」
 村では、動力を使って米や蕎麦の製粉をしている。揚水をして水車を回したりもする。確かに効率はいい。伊吹さんのおかげで、村の作業は大いに助かっている。でも、それでも村の生活が楽というわけじゃない。あたしから見ると、みんな朝から晩まで働いてなんとか生活が成り立っている感じだ。
 村の人たちは、自分たちの生活を守るために必死に働いている。冬は特に厳しいらしい。動力を使うところが限られてしまうから、村の活動も停滞してしまう。寒さが厳しくなると、揚水や製粉の作業も思うように進まない。
 毎日工房での作業を手伝っているけど、時々このままでいいのかと考えてしまう。もっと効率的に、もっと楽に生活できる方法があるんじゃないかって。この〈霧〉を使った動力でひともうけできないんだろうか。
 近隣には軍や工業の施設があって、そこに資本が集まっているらしい。大きな工場や軍の施設が建ち並び、そこには最新の機械が導入されているんだろう。直接対立しているわけじゃないけど、なんとなくプレッシャーを感じる。
 自分の無力さを感じることもある。正義感とか義務感とか、そんな大それたことじゃない。ただ、もっと楽ができたらいいのにって、ただそれだけの気持ち。
 この村で何ができるのか、自分に何ができるのか。あたしはその答えを探し続けている。楽をするために。効率よくするために。伊吹さんと一緒なら、何か見つけられる気がする。村の生活を少しでも楽にするために、あたしも頑張ってみようかなって、そんな気持ちになってきている。
 目の前の男が口を開いた。
「明日の祭りに一緒に行かないか」
 祭りの話をする村人の声は、まるで業務連絡みたいに感情がこもっていなかった。でも緊張しているのか、少しだけ震えている。それでも心が少し浮き立った。祭りなんて楽しそうだし、ずっと作業ばかりで息抜きも必要だと思っていた。
「うん、行ってみたいな。何をするの?」
「踊りや屋台が出て、みんなで楽しむんだ。きっと気に入る」
 祭りの話をしていると、工房の扉が開いて伊吹さんが帰ってきた。彼女の表情は険しく、村人を睨みつけるように見つめた。
「灯は今、忙しいんだ。祭りに行く時間なんてない」
 村人が驚いた表情もなく淡々と頷き、「そうか、分かった。じゃあ、また今度」と言って去っていった。
 村人が去ってから、あたしは少し不満を抱きながら伊吹さんに向き直った。
「なんで祭りに行っちゃダメとか言うんですか?」
 伊吹さんは溜息をついて、〈霧〉の入った桶を持ち上げながら答えた。
「灯、今は大事な時期なんだ。暖かい季節のうちに稼がないといけないんだよ。」
 元の世界での職場のことを思い出した。あのときも自分の言ったことが、頭ごなしに否定されてた気がする。古いルールがあって、新しい提案や改善が全く受け入れられなかった。いつも同じやり方を強制され、やりがいなんて感じられなかった。ちょっと褒められると同僚や先輩の嫉妬があって、邪魔されたりもした。
「あたしが祭りに行くのが気に入らないんですか? もしかして、嫉妬とか?」
 伊吹さんはしばらく黙っていた。またため息をついて、疲れた表情で言った。
「そんなことないよ。でも、この村は冬になると仕事が減るんだ。その分、今のうちに稼いでおかないと生きていけないんだよ。それからね。あなたがいた場所がどんなところか知らないけれど、この村で若い女がひとりで祭りに行ったら、厄介なことになるんだよ」
 そう言って、伊吹さんは〈霧〉の入った桶を抱えたまま部屋に入っていった。
 なんなの。職場にいたときの御局様みたい。まあ伊吹さんはめっちゃ仕事するところが、ぜんぜん違うけど。

 日差しが強く照りつける季節になった。蝉の声があちこちから聞こえてくる。あたしも工房での作業に追われている。外の暑さが工房の中にも少しずつ忍び寄ってくるけれど、ここはまだ涼しい方だ。
 あたしはシリンダーを手に取り、慎重に〈霧〉を詰める。すっかり慣れてきた作業だ。シリンダーの中に〈霧〉を詰めると、ピストンがゆっくりと動き出す。
 よし、順調に動いてる。
 あたしはピストンの圧力をゆるめて、棚に置く。
 こんなにたくさんのピストンが並んでると、なんだか壮観だ。
 満足、満足。いや達成感か。いやいやまだ達成ではなくって始まったばかりか。でもとにかく進んでいる。ああ、これは誇りなのかも知れない。
 次のシリンダーに手を伸ばし、蝉の声を聞きながら作業を続ける。
 ピストンつきのシリンダーは、村の外の人たちにサブスクで貸し出している。あたしのアイデアだ。シリンダーを貸し出して、村は安定した収入を得られるようになった。新たな雇用も生まれた。
 伊吹さんに新しいビジネスモデルの提案をしたときのことは、今でも覚えている。あれが分水嶺だったと思う。
「サブスクって何?」
「月額でお金をもらって、シリンダーを貸し出すんです。使いたい人は毎月お金を払って、必要なときだけ使えるようになるんです」
 サブスクリプション型のビジネスは、元の世界では当たり前のよに採用されていて、わざわざサブスクリプションとかサブスクって言わないこともある。音楽や映像のストリーミングサービス、雑誌の定期購読、ソフトウェアの利用ライセンスとか。このモデルの利点は、消費者が高額な初期投資を避けて手軽に利用できる点と、企業側が安定した収入を確保できる点にある。
 元の世界での職場は、古い体質のメーカーだったし、みんな頭が固くて、あたしがサブスクの提案をしても見向きもされなかった。営業が大きな機械を一つ売るには労力がかかるし、失敗したら売上はゼロだ。でもサブスクで、つまりレンタルにすれば、ゼロではなくなる。いくらか入る。どうせ売れなくて困ってるんなら、メンテナンスサービス付きのサブスクにしたらいい、っていうのあたしの提案だった。
 でも設備部門は現場の改善提案だけしていればいい、と無視された。営業のことは営業がやるって。そうやって売上も利益もどんどん下がっていってた。
 伊吹さんに提案したサブスクモデルは、〈霧〉のエネルギーを利用したシリンダーを月額で貸し出すというものだ。村で生産される〈霧〉のシリンダーは、動力源として非常に有効で、農業や工業、さらには家庭のさまざまな場面で利用できるはずだ。だから、この工房だけで製粉を請け負うだけじゃなくて、定額でシリンダーを貸し出すことで、利用者は初期費用を抑えつつ、必要なときに動力を手に入れられる。
 シリンダーを使用したい利用者は、月額の利用料金を支払う。これにより、利用者は常に最新のシリンダーを利用できるし、壊れた場合でも交換が可能だ。シリンダーは村の工房で定期的にメンテナンスされ、常に最適な状態で提供される。さらに、利用者は自分の需要に合わせてシリンダーの数を調整できるため、無駄なコストを削減できる。
 伊吹さんはしばらく考え込んでいたけど、やがて頷いた。
「それなら、安定した収入が得られるかもね。試してみようか」
 その時の彼女の賛同が、今の成功に繋がっている。あたしもアイデアが形になり、儲かっていることに自己効力感がある。
 サブスクの導入によって、村には安定した収入がもたらされた。月額料金を通じて得られる収入は、村で抱える負債の返済や、新たな設備投資に充てられるようになった。また、新たな雇用も生まれ、村の経済は徐々に活性化していった。シリンダーの管理や販売業務など、さまざまな役割を担う人々が増え、村全体が一つの大きなチームとなって動き出した。
 一方で、このサブスクモデルの導入にはいくつかの課題もあった。まず、シリンダーの品質を常に高い状態で保つためには、定期的なメンテナンスが欠かせない。そのため、工房の作業員には専門的な知識と技術が求められるようになった。また、利用者が増えるにつれて、シリンダーの生産能力を拡大する必要も出てきた。これに対応するために、村の工房は新たな設備を導入し、作業効率を上げるための工夫を重ねた。
 さらに、シリンダーの利用に関するトレーニングやサポート体制も整備された。初めてシリンダーを使う利用者には、使用方法や注意点を丁寧に説明し、万が一のトラブルにも迅速に対応できるようにした。これにより、利用者の満足度が向上し、いい評判が広がっていった。ネットのレビューのことを口コミって呼ぶ理由が分かった。
 また、サブスクモデルの導入に伴い、帳簿の管理も導入された。利用者の契約情報やシリンダーの在庫状況、メンテナンスの履歴などを一元管理することで、業務の効率化と情報の透明性を確保した。本当はスプレッドシートアプリがほしいところだけど、この世界にはコンピューターがない。だから帳簿をつけ始めた。結構やっかいだ。
 元の世界の勤め先の、経理の人たちはこれをベースにものを考えていたんだな、古臭いとか言ってごめんね、とちょっと思っている。
 このようにして、村の〈霧〉のサブスクビジネスは順調に拡大していった。利用者の声を反映させながら、サービスの改善を重ねていくことで、さらなる発展が期待できるだろう。伊吹さんとの協力のもと、あたしはこの村を繁栄させるための一翼を担っている。
 うん、これはちょっと、いや、がっつり誇りに思っていいんじゃないかな。
 余裕のおかげで、私も〈霧〉の研究ができている。
 はずなんだけど。
 研究用の機材がない。どんな機材を使えばいいかも思いつかない。顕微鏡だけでは限界がある。思うようにデータを取れない。
 ノーベル化学賞を受賞したラザフォードは、原子内部を直接見ることなく、原子核と電子の構造を観測した。彼は粒子を原子にぶつけ、その跳ね返り方から構造を推測したのだ。そんな画期的な方法で科学の常識を覆した。でも、あたしにはそういうことができない。
 その一方で、応用科学や工学の方が手っ取り早く効果が出る。霧の入ったピストン付きシリンダーのサブスクが成功したように、実際の生活に役立つ技術を開発することには、目に見える成果がある。やっぱり自分は基礎研究よりも応用が向いているのかも知れない。
 科学の理論を追求するよりも、現実の問題を解決することに満足感を覚える。この村で、自分のスキルが役立っていることが嬉しい。
 工房の外に出て、遠心分離機になっている水車のところへ向かう。水車は今日も元気に回っている。
 ちょっと様子を見てみよう。
 水車を止めて、シリンダーを手に取る。〈霧〉の質量が底側に偏っている。
 期待どおりだ。
 やっぱり基礎研究より応用に適性があるのか。この世界ならチートで基礎研究で有名になれると思ったんだけど、そうはいかないかも。
 水車の調整をしながら、次の計画を頭の中で考える。

 工房の周りの木々が赤や黄色に色づき始めた。涼しい風が吹き抜け、あんなにうるさかった蝉の声は鳴りを潜め、代わりにコオロギの声が響く。空気も澄んできて、深呼吸すると体の中が涼しくなる。
 訪ねてきた村の男は、少し落ち着かない様子で、何かを言いたげにしている。
「どうしたの?」
 あたしが尋ねると、彼は重い口を開いた。
「サブスクの売り子をやめたい」
 驚いた。サブスクの売り子としてよく働いてくれていたのに、どうして急に。
「なんで? 何かあったの?」
 彼はしばらく沈黙した後、ようやく話し始めた。
「町でいろいろと嫌なことがあった。小突かれたり、罵倒されたりするのが苦痛なんだ。怖い」
 そんな目に遭ってるなって、ぜんぜん全然気づかなかった。
「どうしてそんなことに?」
 彼は目を伏せ、しばらく黙ったままだった。やがて、ポツリポツリと話し始めた。
「サブスクのシリンダーは気に入ってもらえてるし、売って歩くのは嫌じゃない。得意先を回ってるだけでいいし、その得意先が紹介してくれるお客さんはやりやすい。そうじゃなくて町の商売人や、お雇い外国人たちが、俺たちの商売を妬んで邪魔をしてくる。新しいものを導入するのが気に入らないのか、競争相手を排除したいのか分からないけど、何度も嫌がらせを受ける。もう耐えられない」
 あたしは工房の窓から外を見る。村に余裕ができて、のんびりしている人たちがいる。でも町の実業家たちと競合関係になる。彼らは村の成功を妬んで、妨害してくる。〈霧〉の力には太刀打ちできないだろう。〈霧〉の特性を理解し、利用できるのはあたしたちだけだ。
 でも油断は禁物だ。
 サブスクのシリンダーを貸し出しているはずなのに、返ってこないことが増えている。だからデポジット制にしてみたけれど、それでも返ってこない場合がある。〈霧〉のシリンダーを研究しているんだろう。
 不安と同時に少しの優越感も湧いてくる。連中がどれだけ研究しようと、〈霧〉の本当の力を理解するのは難しいはず。あたしと伊吹さんだけが、その秘密に触れることができる。
 でも、それだけじゃだめだ。いいものを作れば自動的に売れるわけじゃない。元の世界の職場でも、そんな話でよく組織間で揉めていた。何をいくらでどうやって、どういう経路で売るのか。商売を継続するには、逆説的だけれど状況に合わせて変わらないといけない。
「話は分かった。辛い思いをさせて申し訳ない。何か考えてみる。強そうな用心棒を雇うとか。そうしたら、また手伝ってくれないかな」
「考えておく」
「これまでありがとう。今月のぶんはちゃんと払うから、また取りに来て」

 風が木々の葉を揺らし、赤や黄色に色づいた葉が地面に舞い落ちていく景色はとても穏やかだ。でも、じわじわとこの生活が脅かされている。
 機械の点検をしよう。集中しないと。でも、気が散る。サブスクのシリンダーが返ってこない。デポジット制にしても返ってこないシリンダーが増えている。売り子が嫌がらせを受ける。ひとつひとつは小さいけれど、全部つながっている。
 この村のビジネスが、潰されそうになってる。
 あたしは顕微鏡を取り出して〈霧〉の中を覗いた。研究はさっぱり進んでいないけれど、こうやって〈霧〉の中の小宇宙を眺めるのは好きだ。無数の星が輝き、ビッグバンとビッグクランチが繰り返される様子は、まるで宇宙が生きているみたいだ。そうやっていると時間が経つのを忘れてしまう。
 もう夜になってしまった。お腹も減った。
 あれ? 伊吹さんはどうしてるんだろう。長い間部屋にこもったままだ。最近いつも、伊吹さんは疲れた顔をしている。でも、村のピンチを乗り切るためだ。夕方ごろに伊吹さんにう話しかけた。
「伊吹さん。やっぱりなんとかしないと」
 伊吹さんは首を振った。
「分かってるよ。でも、資本のある実業家たちには勝てないんだ。彼らは力も金も持ってる」
「でも、ニッチを見つければいいんじゃないですか? 全ての市場を相手にする必要はない。小さくても確実なところを狙っていけば……」
「ニッチ?」
「えっと、小さくて特定の需要がある市場のことです。大きな市場じゃなくて、特定の人たちに向けて商いをするんですよ」
「それで?」
「大きな市場で戦うんじゃなくて、特定の人たちに向けてやるんです。そうすれば、競争も少なくて済むし、もっと効率的に利益を上げられるんです」
 伊吹さんは深いため息をついた。
「自分ができることを続けるだけだよ。それ以上は無理だ」
「伊吹さん、これはゼロサムじゃないんです。相手が得るからこっちが失うわけじゃない。両者が利益を得る方法もあるはず。ゼロサムっていうのは、全体の利益が決まっていて、誰かが得れば誰かが失うっていう考え方です。でも、そうじゃないんです」
「よくわからないけど、疲れちゃった。ちょっと休ませて」
 そう言って、〈霧〉の入った桶を持って自室にこもってしまった。
 もう夜だよ、ご飯食べようよ。
 そう思って、伊吹さんの部屋の扉をそっと開けて覗いてみた。なんでそうしたのか分からない。なんか今日は話しかけづらかったからか。あまりにも伊吹さんの部屋が静かだったからか。
 伊吹さんは〈霧〉の入った桶の前に座っていた。彼女の手は〈霧〉をこねるように動かしている。薄暗い部屋の中で、〈霧〉がゆっくりと輝き始めた。その光に照らされて、伊吹さんの顔には少しずつ正気が失われていく様子が見て取れる。
 鶴の恩返し。鶴が自分の羽を抜いて織物を作る昔話。
 伊吹さんも同じように自分の何かを犠牲にしている? 〈霧〉にエネルギーを補填している?
「あ……伊吹さん……?」
 声をかけた瞬間、伊吹さんがこちらを見た。立ちあがろうとする。でも足がもつれて倒れた。
 あたしは驚いて駆け寄り、抱き起こした。そのとき、彼女の体が以前よりも軽くなっていることに気づいた。前に伊吹さんがこけたとき助け起こしたときはもっと重かったのに。
「伊吹さん、大丈夫?」
 彼女の顔は青白く、呼吸も浅い。あたしは焦りながら彼女の肩を揺さぶった。
「しっかりして、伊吹さん!」
 どうにかして助けないと。外の風に当てれば、少しは回復するかもしれない。窓を開ける。
「伊吹さん、もしかして〈霧〉に何かしてたの? エネルギーを注いでるとか、そういうの?」
 あたしの問いに、伊吹さんは「エネルギーって何?」とは言わなかったけど、そういう表情をした。
「ああやって〈霧〉をこねると、〈霧〉が復活するんだ。ちょっとだけ〈霧〉が重くなる、ほんのちょっとだけ。そしたら〈霧〉から取り出せる動力が戻る」
 と伊吹さんが言った。
 つまり、伊吹さんの質量が〈霧〉に移転している。そしてその質量エネルギーが、ビッグバンの運動エネルギーになっている。だから〈霧〉のエネルギーが復活する。代わりに伊吹さんの質量が減っていく。
「でも、そのペースじゃ、伊吹さんが消えちゃいます。どうしてそこまでして、命を危険にさらしてまで献身するんですか?」
 あたしの問いに、伊吹さんは涙をぬぐいながら、静かに語り始めた。
「恩返しだから。鷺の恩返し」
「えっ? 鷺って、あの伝説の鷺?」
「そう。伝説っていうか、言い伝えだね。同じ言葉だけど。言い伝えでは、射られた鷺が君主に拾われて弔われ、そこに花が咲く。でも本当はね。鷺は、私は、親切な村人に拾われた。医者に診せてもらって、治療を受けて、空に戻った」
「でも、だからって命を削ってまで何かをするなんて……」
「もともと失いそうだった命を、村の人たちに助けてもらった。私が最期を迎えるまえに、恩返しをしたい。今度は私が村を助ける番なんだよ」
 でも、だからって命を削らなくっても。
「伊吹さん、いるべき場所にいるべきです。それはこの村ですよね。だから、命を削っちゃだめです。恩返しは命を削ることじゃなくて、他の方法でもできるって」
「でも、私にはこれしか方法がないよ……」
 あたしは伊吹さんの手を握る。
「違うよ、伊吹さん。命を削らなくても、別の方法で恩返しできる。私たちで一緒に方法を見つけましょう」
「どうやって……?」
「あたしたちで考えましょう。伊吹さんとあたしで、きっと何かいい方法が見つかります。あの水車にシリンダーをくっつけて回すやつ、遠心分離機なんです。外側のほうに質量が偏るから、外側の〈霧〉はエネルギーが復活する。内側の軽くなったほうをどうするか、が問題なんだけど。でもそれをうまく解決したら、きっと」
「分かった。分かったよ」
 伊吹さんは頷いた。同意してくれたんだよね? もう命を削ったりしないよね? この村、というか伊吹さんを守るために、新しい方法を見つけよう。

 冬になった。木々の葉もすっかり落ちて、冷たい風が工房の周りを吹き抜け、雪がちらつくこともある。
 遠心分離機になっている水車の前に立ち、シリンダーを慎重に取り外す。〈霧〉の一部が重くなっている、つまりエネルギー濃度が高まっている。あたしは、この部分を〈濃縮霧〉と呼んでいる。
 シリンダーの反対側には、〈劣化霧〉が集まっている。エネルギーの低い〈霧〉だ。慎重に大きな樽に移し替える。樽の内側は鉛で覆われていて重たい。そこにおさまった〈霧〉は死んだように見える。こっちは〈劣化霧〉。
 その時、枯葉の中から一匹の虫が這い出てきて、よろよろ飛びたった。もう寿命なのか、寒さで動きが悪いのか。ぐるぐる飛びながら樽に近づき、〈劣化霧〉に触れる。たちまち朽ち果ててしまった。
 〈劣化霧〉に触れたものは、急激に傷んでしまう。虫なら一気に死んでしまう。私が手を触れたときは、肌が荒れてしまった。十日ほどで元に戻ったけれど、とても焦った。無機物は素材によって反応はことなるけれど、比較的安定している。
 あたしは、無理矢理エネルギーを低くされた〈霧〉は、触れた物質のエントロピーを急激に増大させるんではないか、と仮説を立てた。でも証明の仕方が分からないし、実際問題として、どう処理すればいいかも分からない。
 伊吹さんがやってきた。
「やっぱり、難しいからいいよ」
「でも、伊吹さん、これがうまくいけば……」
「危険すぎる。あなたに何かあったら、どうするの?」
 あたしは黙り込んでしまった。彼女の言葉には重みがあった。命を削ってまで、何かを成し遂げることは本当に正しいのか。
「灯、もう少し考えよう。この方法は危険すぎる。もっと安全な方法があるかもしれない」
 あたしは頷いた。伊吹さんの言葉に従って、もう一度方法を考え直すことにした。やっぱり彼女の命も、自分の命も大切にしないといけない。
 工房の中に冷たい風が吹き込んできた。あたしは、〈劣化霧〉を樽に集めて、安全な場所に移動させた。
 〈劣化霧〉を慎重に樽に詰め、しっかりと蓋をした。これでエネルギーの低い〈霧〉が漏れ出すことはないだろう。樽を工房の奥の方に置き、作業の邪魔にならないようにした。
 そのとき、外から騒がしい声が聞こえてきた。何か怒鳴り声が響いているが、言葉の内容までは分からない。
 工房の扉が乱暴に開け放たれ、数人の男たちが入ってきた。見るからに柄の悪い男だ。
「この水車小屋、差し押さえるぞ」
 男は威圧的な声で言った。伊吹さんは眉をひそめて、男を対して一歩前に出た。
「何のつもり? ここは私たちの工房だよ」
 男は笑いながら答える。
「担保に出してるんだろ。期限切れだ。今からこの水車小屋は俺たちのもんだ」
 担保? 知らない。だいたい工房は、借りた納屋を改造してあるだけなんだ。
「ああ、知らなかったか? 家主が担保に出してたんだよ」
「ちょっと待ってください! 担保の差し押さえには正式な手続きが必要です。勝手に差し押さえるなんて違法です」
 男たちは一瞬驚いたようだったが、すぐに笑い声をあげた。
「お嬢ちゃん、あんたがこの村の不思議ちゃんか? 頭の中、お花畑で、世間離れしてるんだってな。でもここはお前の頭ん中の世界じゃねぇんだよ。こっちはすっかり手続きを済ませてる」
 外から警察官がやってきた。彼らは工房の中に入り、状況を確認するようなそぶりをしたけれど、真剣に観察をしている風でもない。
「事情は分かった。だが、ここは差し押さえが決まっている。速やかに明け渡すように」
 なんだこの警察官は。グルだろ。法の番人ではなく、権力の手先に過ぎない。だから公務員の給料は多めにしておかないといけないのに。
「もう一度言う。ここを速やかに明け渡しなさい」
 伊吹さんが、しばらく黙って考えて、相手を睨んで、それから一歩前に出て、低い声で言った。
「分かった。ここを明け渡すよ。ただ、身の回りのものをまとめる時間をくれない?」
「いいだろう。だが、手早くな」
 ガラの悪い男は工房の入り口で腕を組み、伊吹さんとあたしの動きをじっと見ている。少しでも怪しい動きをすれば、すぐに止めにかかるだろう。
 伊吹さんは工房の中を見渡して、それから、あたしに目を向けた。ぜんぜん諦めた目ではない。あたしの方に寄ってきて、静かに言った。
「〈霧〉を持ち出す。分担して、順番に回収するよ。まずは棚にあるシリンダーから」
 あたしは驚いて伊吹さんを見つめた。目で「本当に?」と問いかけると、伊吹さんも目で「そうだ」と答えた。決意が込められた目だった。
 荷物をまとめる手を止めず、シリンダーを手早く梱包する。ガラの悪い男は気づかないようだ。
「素早く。でも慌てないで」
 伊吹さんの声がさらに緊張感を高める。手際よく荷物をまとめ、工房の外に運び出す。表に出ると、冷たい風が頬を刺した。
 次に水車のシリンダーを取り外す。手慣れた動作で慎重に行う。すると、ガラの悪い男が声を上げた。
「それは設備だから、抵当になってる。持ち出すんじゃねえ」
 仕方なく水車から離れる。
 荷物を荷台に積み込みながら、あたしの手が震えているのが分かる。でも、今は怖がっている暇なんかない。荷物の一つ一つに命がかかっている。
 男たちの視線が気になる。荷物に紛れた〈霧〉のシリンダーを見つけられないように、細心の注意を払う。だが、ガラの悪い男の一人が荷物を漁り始めた。あたしの心臓が早鐘を打つ。
「これは何だ?」
 男が着物の間から〈霧〉のシリンダーを取り出した。冷や汗が流れる。
「それくらい手土産にしてやれ」
 警察官の冷たい声が響いた。男たちは不満そうにしながらも、シリンダーを元に戻した。あたしたちは安堵の息をつく。
 伊吹さんとあたしは、工房の奥から慎重に樽を運び出した瞬間、ガラの悪い男がそれを止めた。
「それは持ち出せねえ。ここに置いていけ」
「これは建物についてたものだじゃない。私たちのものだ」
 伊吹さんは毅然とした態度で主張したが、警察官は男たちの側に立った。
「いいや、それも含めて差し押さえだ。荷物を下ろせ」
 伊吹さんがあたしに目配せをする。あたしは飛び出す。素早く、でも慌てちゃいけない。
「嫌だ!これだけは絶対に渡さない!」
 あたしは樽に抱きついた。ガラの悪い男と警察官があたしを引き剥がそうとする。
「離れろ!それは俺たちのもんだ!」
 力強く引っ張られ、体が引き離される。どうにかして抵抗しようとしたが、あたしは無力だった。
 ガラの悪い男が、樽を自分の荷車に載せようとする。でも、樽にくっつけた鎖が引っかかり、運搬が難航する。
「何だこれ、邪魔だな!」
 男が強く引っ張った瞬間、樽が壊れ、中から白い煙が溢れ出た。正確には、〈劣化霧〉が空気に触れて反応が起こり、白い煙に見えているだけだ。
「何だこれ!」
 男が〈霧〉に触れた途端、みるみる朽ちていく。肌がしわくちゃになり、髪は白くなり、あっという間に老人のように変わり果てていった。
「あ、ああ……」
 男は地面に膝をつく。
 伊吹さんがすぐに声を出す。
「灯、〈濃縮霧〉で中和して!」
 あたしたちは持っていたシリンダーから〈濃縮霧〉を急いで取り出し、まだ漂っている〈劣化霧〉にかけた。〈霧〉同士が触れ合い、反応しながら中和されていく。
 やがて〈霧〉が収まり、周囲の空気が再び静かになった。老人になった男の姿がそこに残されていた。
 警察官は
「祟りだ……白鷺の祟りだ……」
 と、うわごとのようにつぶやいて、その場に立ち尽くしている。

 春になった。草木が新芽を吹き、花が咲き始めた。空気も暖かく、風がやわらかい。
 工房の裏庭に並べたたくさんのガラス瓶のうちの一つを手に取る。瓶の中には、〈劣化霧〉が封じられている。
 あの事件の後、〈劣化霧〉は穢れのあるものだと噂が広がった。浦島太郎の物語みたいに、とつぜん煙が出て歳をとるなんて現実離れしているし、この世界の科学ではエントロピーなんて、コンセプトすら伝わらない。だから穢れとかそういう方面の解釈がされた。
 〈霧〉を扱うことが許されるのは、鷺の再来と噂される伊吹さんがいるこの村だけ。村は〈霧〉の専売所として繁栄を続けている。
 ガラス瓶を慎重に持ち上げ、重量を測る。少し重くなっている。日光を吸収して、〈劣化霧〉内部のエネルギーが徐々に回復している証拠だ。
 ガラス瓶をひとつひとつ見て回っているうちに、日が暮れてくる。空がオレンジ色に染まる。
 伊吹さんが工房から出てきた。
「灯、少し散歩に行かない?」
「はい」
 ふたりで並んで歩き、やぐらのある野原へ向かう。風が頬を撫で、草の香りが漂ってくる。野原の緑の草が、少しだけオレンジ色がかっている。
「ここに来ると、いつも落ち着くな」
 伊吹さんがつぶやいた。その顔には、少し疲れが見えるけれど、安らぎも感じられる。
「あたしも、この場所好きです。静かで、綺麗で」
 ふたりはやぐらの近くに立ち、しばらく無言で夕焼けを見つめていた。この村での出来事、〈霧〉の研究、そして未来について考える。たまにこうやってふたりで。
「灯、これまでありがとう」
「なんですか、改まって」
 あたしは少しおどけて言った。なんかちょっと今日は、伊吹さんの様子が違うかも知れない。別に深刻なわけじゃないけど。でもなんだか、小さな覚悟みたいな雰囲気がある。
 なんだっけ。
 そうだ。付き合ってくださいとかって告白するときの、小さな覚悟や緊張と似た雰囲気がある。
 〈霧〉がいつもより多く出ている。辺り一面が薄い白い靄に包まれているようだった。
「〈霧〉が多いですね」
「うん、明日は〈霧〉を採取しようか」
 伊吹さんは静かに頷きながら言った。あたしたちはやぐらに登り、周囲の様子を見渡した。〈霧〉が薄く広がっている風景は、幻想的で神秘的だ。普段はど田舎に放り込まれたような風景だけど、〈霧〉が出ているときは、いかにも異世界って感じがする。
「灯、私は自分の正体を村人たちに明かさずに、遠心分離機でやっていける気がする」
「よかった」
 もう伊吹さんは、自分を犠牲にせずにやっていける。歯車の整備よりも、サブスクよりも、伊吹さんの命を削らなくてよくなったことが、本当にあたしの貢献だよ。
 伊吹さんの質量エネルギーではなく、〈劣化霧〉は太陽光のエネルギーを吸収させて、リサイクルできるようになった。
 最初は、これはすごい発明だ、この世界では温暖化が起こらないかも知れない、と思った。太陽光エネルギーを吸収すれば気温が上がらなさそうだったから。
 でもそうじゃない。〈霧〉から動力として取り出したエネルギーは、結局地上に拡散される。変換効率だって一〇〇パーセントじゃない。その結果、やっぱり温暖化は進むかもしれない。今はまだ実感がないけど、長期的に見たらどうなるか分からない。元の世界では、温暖化は深刻な問題だったし、この世界でも同じことが起こるかもしれない。あるいは、そんなちっぽけなエネルギー変換は、地球全体では誤差かもしれない。
 空が暗くなってきて、〈霧〉が薄い光をゆらゆらと放っている。幻想的だけど、不気味。まるでこの世のものではないみたいだ。
 ちょっと、なにこれ? 怖いんだけど。足元がふわふわして現実感が薄れる。
「あの、伊吹さん、これは……」
「心配しなくていい。ときどきこういうことがあるんだ。あんたが現れた日もこんな感じだったんだよ」
 そう言われても、気持ちが落ち着かない。この異世界の風景と、現実の境界が曖昧になるような感覚。風の音の向こうから、かすかな音が聞こえてきた。最初は小さな音だったけれど、だんだん轟音になっていく。闇の中から電車がゆっくりと姿を現した。あたしたちが座っているやぐらの目の前に停車する。
「これ……」
 電車の存在感に圧倒される。こんな場所に電車が現れるなんて、夢を見ているようだ。伊吹さんの顔が柔らかい笑顔に変わった。
「灯、あんたにはもっと活躍できる場所があるんじゃない?」
 心の中で葛藤が渦巻く。ここでの生活がやっと落ち着いてきたのに。伊吹さんとも、村の人たちとも、やっと馴染んできたのに。元の世界に戻るなんて、そんなこと。
 ここが好き。伊吹さんや村の人たちと過ごす時間は、あたしにとって大切なものになっている。だけど、あっちの世界でやり残したこともある。ここで満足していいのか、それとも元の世界で自分を試すべきなのか。
「でも、伊吹さん、あたしはここが好きですよ」
 伊吹さんは優しく頷いて言った。
「知ってるよ。でもね、灯、あんたはもっとできることがあるはずだ。私が知らないことをいっぱい知っている。灯が力を発揮できる環境があるんだよね。これの向こうに」
 まるであたしが、どこから来たのかを知っているような口ぶりだ。ここが異世界で、あたしがもっとこう未来っぽい世界から来たことを分かってるみたいな。
 あたしの居場所はあっち側なんだ。目の前のドアが開いた。電車の中は明るくて、温かそうで、プラスチックの匂いがする。現実の世界の一部がそこにある。
 伊吹さんが続けた。
「港のお雇い外国人たちが話してたんだよ。エネルギーとかエントロピーとか、あんたが話す言葉をね。あたしも詳しくは分からないけど、あんたが特別な場所から来たんだろうなぁ、くらいは分かる。逆に私は、穢れとか恩返しとかそっち方面の世界からやってきた」
 伊吹さんは分かってたんだ。だからこそ、あたしにもっと活躍して欲しいって思ってくれてたんだ。
「ありがとう、伊吹さん」
 伊吹さんは頷き、あたしを見送るように手を振った。最後の笑顔も優しい。口下手だけど。あたしは決心して電車に乗り込んだ。扉が閉まり、電車が動き出す。窓の外に広がる異世界の風景がゆっくりと遠ざかっていく。
 ありがとう、伊吹さん。また恩返しに来ます。

〈了〉

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