bottle collective『投擲』 -抵抗するメタボリズム

昨日は、最終日だった「東京インディペンデント2019」をのぞきに東京藝大まで出かけたのですが、終了時間が早くて間に合いませんでした。
特に確認したかった作品はbottle collectiveの『投擲』。
川崎の反民族差別運動から生まれたコレクティブが、川崎産業道路沿いに捨てられた(中身入り)ペットボトルを拾って出展していたのです。レイシストに投げつける投擲武器とのこと。
出展についてはコレクティブのTwitterで知っていたのに、ボトルの中身は飲み残されて腐ったお茶やジュースだと思い込んで「ふーん」くらいに受け取っていた不明を恥じます。
実は産業道路沿いで働くトラック運転手たちのおしっこ「らしきもの」(by 東京都)が詰まっていると聞いて、がぜんおもしろく感じて出かけたのが最終日でした。今度川崎に行くときに、作品の背景になった環境を確認してこようと思います。

見逃したなりに雑感を述べるとすると、美術史ではなく左翼運動史においては、「敵におしっこを投げつける」という行為はただちに三里塚農民闘争を想起させます。

「もう一つのインパクトは、三里塚の農民たちからもたらされた。農民たちは、いざとなると、学生たちよりも、はるかに過激だった。竹ヤリ、大鎌、ふん尿、農薬といった武器を用い、機動隊へのぶつかり方も、学生や労働者たちよりはるかに強烈で、徹底していた」「迷路状の地下壕網を作りあげ、その出口六ヶ所には、小屋を立て、周囲に杭を張りめぐらし、その外側には堀を掘ってふん尿を入れておく…」(立花隆『中核vs.革マル』)

三里塚だけでなく、アジア農村の反開発運動では一般的な「武装」だろうとも考えられるおしっこ。
農村では身近な資源であるおしっこも、やがて都市化と工業化によって圃場が消え下水道が整備されると、目にする機会さえ失われてきました。
しかし、人間がおしっこをしなくなる訳ではなく、おしっこを見えないように処理する都市の機能が不全化したすき間から、おしっこは突然私たちの前に現れます。
それはかつての近世農村におけるような有用な生産資材ではなく、単に処理がやっかいな不経済の結晶でしかないところに、都市における人間疎外が象徴されているようでもあります。

ただ、『投擲』には、農村-都市という二元論的な疎外論で納得する保守的心性を拒否するインスピレーションがあるようです。
なぜならこれはレイシストに投擲する武器であり、川崎という工業地域が育んだ多文化社会を防衛する武器なのですから。
そこで、三里塚と川崎に共通するものを、<上からのメタボリズム>に抵抗する<下層=基層の新陳代謝>としてくくり出してみたい。

建築に詳しいわけでもありませんが、開発と再開発を繰り返す都市の様相が人体の新陳代謝の用語で語られることがあるのは知っています。
都市を有機体になぞらえれば、航空や自動車運送といった物流は新陳代謝を担う循環系そのものです。
しかし、巨視的な新陳代謝を続ける都市の傍らで、農地を取り上げられる農民や、立ち退きを迫られる移民労働者の子孫、トイレに行く暇もなく労働に追われまくる運送業者とは、都市にとって一体なんなのだろうか。
マクロな新陳代謝の過程で使い捨てられ排泄される老廃物なのか。
そんなはずはねえ。ピス・オフ! イート・マイ・シット!
抑圧的な「経済合理性」や、それと共犯関係にある右翼的な保守主義に対して、新陳代謝する人間という事実そのもの(=おしっこらしき液体)は、鼻をつままれ、抵抗しつづける主体なのです。
bottle collectiveの『投擲』は、半世紀前の三里塚農民蜂起も想起させつつ、「おしっこを投げる」新陳代謝=抵抗の表象をふたたび都市にインストールする試みであったと感じるのでした。

(5/7:作品タイトルを『投擲』に訂正)

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