能動的ニヒリスト野田B:『愛にできることはまだあるかい』から

最近、映画『天気の子』主題歌のRADWIMPS「愛にできることはまだあるかい」を改めてじっくり聞きました。おもしろい歌詞です。

映画館で劇伴として聴いたときには、一人の「僕」によるモノローグだと想ったのですが、歌詞を聴き込んでいくと、そうではありません。

「愛にできることはまだあるかい/僕にできることはまだあるかい」と誰にともなく問いかける4回のリフレインに対して、ラストで「愛にできることはまだあるよ/僕にできることはまだあるよ」と答えが返ってきます。この問いと答え、リフレインの「僕」とラストの「僕」は同じ主体ではないです。(一人の「僕」の心情・信条がしだいに懐疑から確信へと変わった、のではない。)

なぜなら、ラストの「僕」、つまり愛の効用について確信している「僕」は歌詞の前半からすでに登場しているから。「君と分け合った(育てた)愛だから君とじゃなきゃ意味がないんだ」と2回リフレインする「僕」ですね。

したがって、この歌詞は一人の「僕」のモノローグではなく、二人以上の「僕」が同時に現れるポリフォニカルなテキストとして読まねばなりません。

懐疑して問いかける「僕」を仮に野田A、確信して応答する「僕」を野田Bとしておきます。「愛にできることはまだあるかい」の歌詞全体を、野田Aに属するヴァースと野田Bに属するヴァースに切り分けてみると、次のようになりました。

画像1

見づらい解像度ですみません。野田AとBのヴァースをそれぞれ抜き出すと以下になります。

野田A(デスペラートなモラリスト)のヴァース
諦めた者と 賢い者だけが
勝者の時代に どこで息を吸う
支配者も神も どこか他人顔
勇気や希望や 絆とかの魔法
使い道もなく オトナは眼を背ける
愛にできることは まだあるかい
僕にできることは まだあるかい
愛にできることは まだあるかい
僕にできることは まだあるかい
愛にできることは まだあるかい
僕にできることは まだあるかい
愛にできることは まだあるかい
僕にできることは まだあるかい
何もない僕たちに なぜ夢を見させたか
終わりある人生に なぜ希望を持たせたか
なぜこの手をすり抜ける ものばかり与えたか
それでもなおしがみつく 僕らは醜いかい
それとも、きれいかい 答えてよ


野田B(能動的ニヒリスト)のヴァース
何も持たずに 生まれ堕ちた僕
永遠の隙間で のたうち回ってる
だけど本当は 分かっているはず
それでもあの日の 君が今もまだ
僕の全正義の ど真ん中にいる
世界が背中を 向けてもまだなお
立ち向かう君が 今もここにいる
君がくれた勇気だから 君のために使いたいんだ
君と分け合った愛だから 君とじゃなきゃ意味がないんだ
君がくれた勇気だから 君のために使いたいんだ
君と育てた愛だから 君とじゃなきゃ意味がないんだ
愛の歌も 歌われ尽くした
数多の映画で 語られ尽くした
そんな荒野に 生まれ落ちた僕、君
それでも
愛にできることはまだあるよ
僕にできることはまだあるよ

野田AとBは、同じ境遇にいても正反対の心情を歌っています。野田Aは、「なぜ夢を見させたか」「なぜ希望を持たせたか」と「世界」に対して問いかけます。けれど、問いを引き受けるべき「支配者」「神」「オトナ」は、「どこか他人顔」で「目を背け」決して答えません。野田Aにもそれは分かっているのに、「答えてよ」と叫ばずにはいられない。野田Aは「世界」に絶望しながら、まだ「世界」を信じようとしています。この「世界」でもまだ「勇気や希望や絆」や「愛」の役割があると考えたいのです。「世界」を懐疑し、絶望しながら、まだ「世界」と対峙しつづけようとする野田Aは、「デスペラートなモラリスト」と呼ばれるにふさわしいと思います。

モラリストである野田Aは、世界と対峙しながら、懐疑している。
「人生に希望はあるのか? 夢は? どこで息を吸えばいい?」 
「愛、勇気は働いているか? 諦念と狡知だけが勝利するのか?」
「今やこれらはすべて虚しい。しかし本当に虚しいのか?」
と野田Aは世界に問う。
しかし世界は答えない。

一方、野田Bは「世界」には問いかけません。野田Bが呼びかけるのは「君」に対してだけです。野田Aの「愛にできることはまだあるかい」に野田Bが「まだあるよ」と返している訳なので、「君」は野田Aであると読めます。野田Bは「支配者」「神」「オトナ」を歯牙にもかけません。すでに「世界が背中を向けて」おり、この者たちの支配力、神性、権威は失効していると認識しているからです。野田Bはニヒリストです。興味深いことに、野田Bは「何も持たずに生まれ」たにも関わらず、勇気・愛・正義を持っています。それらは「世界」に由来するのではなく、「君」=野田Aに由来する、と野田Bは言います。野田Bは、これらの勇気・愛・正義を行使することをあきらかに望んでいます。「僕にはできる」「僕は使いたい」。これが能動的ニヒリストである野田Bの声です。

よりニヒリストである野田Bが、野田Aに語りかける。
「ぼくらが生まれ落ちたのは永遠の隙間、荒野であり、
ぼくらはもはや何も持たず、何も与えられておらず、
したがって支配者と神は失効している」
「君がくれた愛、君と育てた勇気、君と僕の義、
それらを君と僕のために使うことを僕は欲する」

つまりこういうことではないでしょうか。世界を信じつづけようとする野田Aの絶望から、野田Bが生まれる。野田Bは最初から世界を持っておらず、したがって野田Aの絶望もわかちもたず、ただ野田Aの勇気と愛だけをわかちもち、世界が失効したあとの荒野にあらたな世界を創造することを意志する……。

野田Aは古い主体、野田Bは新しい主体であり、前者は後者によって乗り越えられるのでしょう。私が興味深いと思うのは、前者のそれ自体としては報われず絶望に至る苦闘(なおしがみつく僕らは醜いかい)こそが、後者の「全正義」すなわちそこから全世界が再創造される力の源泉であり、動機でもあると断言されていることなのです。

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