アニメ『デカダンス』最終回 ※ネタバレ含個人総括的感想

 アニメ『デカダンス』が第12話をもって最終回を迎えました。

 素敵な作品を描き切ってくださったスタッフ様へ深く感謝と敬意を。全話を追えて、すごい楽しかったです。

 この記事は、アニメ『デカダンス』の魅力と世界観について、独自の考察と解釈を多々含みつつ、語っていく試みです。

※以下、未視聴の方々、ネタバレ感想の苦手な方々はブラウザバックを推奨しています。

 こっからはわりとタメで語りますけど、許して。


【『デカダンス』とはなんだったのか?】

 移動要塞デカダンスに住まうタンカーと呼ばれる人々、デカダンスの外の荒廃した外界を彷徨うガドルと呼ばれる怪生物たち。

 そして語られるのは、移動要塞デカダンスの外界の文明は既に消滅しており、主にガドルのせいで『人口の九割が死に絶えた(デカダンスの外の人類は死に絶えた)』『デカダンスこそ人類最後の砦』、という終末世界観だ。

 そして人類を“庇護する”戦闘集団「かの力」、そこに所属する「ギア」。ガドルに対抗する戦力である。

 過去にガドルにより父と右腕を失った少女ナツメ。ガドル倒すために戦場に出たい。しかし戦士として認められず。

 装甲修理人として配属された先の昼行灯な上司、カブラギ。

 実は本気出すと凄かった。(一話視聴時点)

 ……いや凄すぎたよ、あなた。(十二話視聴後)

 アニメ一話の時点で、画的にもシナリオ的にも、とんだ情報量とスケールの大きさを感じさせてくれた。実は何回か序盤の頃は見返していたのだけど、見れば見るほど、このアニメ、深い。

 タイトルにある移動要塞『デカダンス』。

 戦闘形態を持っており、ガドルがやってくると、ギアたちを送り出して、要塞そのものも変形して戦う。

 アニメーション的見せ場を、随所ふんだんに盛り込んでいた。

 以後最終話まで、そのクオリティは一貫していた。

 一クールに勝負をかけていたかもしれない。

 広大な荒野を進むデカダンス、そしていつ襲ってくるかもしれぬ、未知の生物『ガドル』、未知ってことはその正体に迫るミステリー要素も込みってことでも安直に期待してよろしいか?

 期待通りでしたわ、ありがとう。

【デカダンスって、ネタバレなしで魅力語ろうとするの、無理じゃね?】

 脚本や演出についてあんまり細かく話そうとするとボロが出そうなので最小限にするけど。

 進撃の巨人って、……あるじゃん。

 序盤時点、壁の向こうの人類駆逐されちったじゃん。

 原作は終盤差し掛かってきて、またすごい色々ひっくり返ってるけど。

 でもね、デカダンスってそういう、『進撃の巨人』でウケたようなエンタメな要素、広大なスケールと立体的なアクションを、セオリーとしては踏襲したうえで、『巨人』とは差別化し、2020年において、異なる次元とアプローチで設定とドラマを練りこもうとした努力というか熱意というか、本当に面白いものを作ろうとした感は凄い発露しているのよね。

 そして、そのスタッフらの仕掛けた第二話。

 なにが起きたか。

 見た人はもうお分かりだろう、アレである。

 どんでん返しだ。

 一話の孤児院にて語られた人類史の偽りを、視聴者たちはここで初めて知らされる。

 移動要塞デカダンスとは、ソリッドクエイク社の用意した、広大な娯楽ゲーム施設だった。

 しかし娯楽施設であるのなら、そこには“誰が遊ぶための?”というクエスチョン、主語が自然と求められる。

 そこで出てくるのは、一話の時点で語られていた、かの力に所属する戦士“ギア”と同じ名を持つ“ギア素体”。

 ギア素体と呼ばれるものにログインしたプレイヤー、は、一目で元々は人外だったとわかるデザインで、既存の人間らとは差別化されている。成形されたギア素体もまた、形こそ一見人型だが、髪の毛の混色や、人間としては少々不自然な色合いの肌で活動する。

 じゃあこれらが一体何者か、という疑問は――3話のBパートまで持ち越しである。

【敢えてドラマに焦点を絞って語りたい】

 このまま最終回まで順に語るために再度視聴したりするのもまたありだと思うが、ひとまずここからは作劇について簡潔に行きたい。

 アニメ『デカダンス』は序盤3話までで、“カブラギ”と世界観のひとつのゲーム的“チュートリアル”なのである。

 3話Bパートにて語られた歴史は、1話冒頭から中盤にかけて孤児院におけるガドルによる人類九割滅亡を本格的に否定するものだ。

 人類はガドルによってではなく、自ららの技術のために絶滅の危機に瀕してしまったのだ。(デデン

 とにかく、この世界の黒幕――というか管理者、権力者、統制者として君臨するのが『ソリッドクエイク社』と呼ばれる、サイボーグを作っている企業だ。

 そして社の上層ではサイボーグの営む社会と、デカダンス内で飼われる人間(タンカー)らを総合して監視・管理する“システム”がある。

 この世界で一番偉いのはフギンと、それの周りをたまに飛んでる丸っこいの、ムニンだ。

 北欧神話に出てくる対のワタリガラスをモチーフにしてるようだが、フギンとムニンと、それぞれの作劇的な役割はきちんと分かれている。

 表立って行動するのはフギン、彼は一話の時点から露骨に暗躍し「世界にバグは不要です」と語る、ほぼ一貫して。

 そして彼はシステムに従属する立場からそう言っている。

 ムニンのほうはというと、球体だったりカラスの姿になったり形状や情緒の起伏の激しそうに飛び回ってたりと不穏さ全開だったが――最終話において明かされた、その正体とは。

 言わぬが花、か。

 システムの決定に委ねるもの、それを反映するのがフギンという人物だ。だがムニンとの役割と認識のわずかな違い、ここが彼らのカブラギとの会話で表面化される。

 サイボーグにとってシステムの作る社会とはなんなのか。必要か不要か。

 しかし、その可否に対する答えではなく、あくまで“問い”そのものが提示されつづけるのがこの物語である。

【『デカダンス』における“主人公”とは】

 カブラギである。

 ナツメという見方もありではあるけど、基本は“ナツメを見て再起し救われたカブラギ”、の話なんである。

 ナツメに絆されて以降、「救われた」と始終のたまいだし、システムへの反逆もラスボスからの要塞防衛ミッションもこなしてナイスガイとして戻ってくる昼行灯を卒業したなら大活躍しまくってたあのおっさんサイボーグである。

 ――しかし、だ。

 この主人公、動機を見出してから、アクティブすぎるぐらいである。

 というか、彼自身、主人公であり、狂言回し的役割も背負っている節があって。彼の行動は一貫して、それなりにかっこいい、そして周囲の反発や困惑も途中で招いているが、みなが窮地に立たされたとき、自分がやると決めたことをやり抜く決断力と実行力を備えたみんなのヒーローだ。

 昼行灯が実は隠れて有能でした。→元上位ランカープレイヤーでした、まぁわかる。

 ガドルの大元ぶっ潰そうぜ、この肥溜めから。システムに反逆してやる、ナツメのためなんだ。→ロックだね、わかるぜ。

 ○○○〇〇の操縦もやってのけたろ→サイボーグだからしょうがないよね、うん、わかる。

 ………………というのに、なぜか歯がゆい気分を視聴していて味わう。

 『カブラギの話』、ばっかりなのだ。よくもあしくも。

 バランスと作劇上の合理は突き詰めて、それが自然に見えるよう、計算し尽くされているし、その劇の勢いもけして間違ってはいないのだ。

 しかし、なにかが惜しい。

 これだけ広大な世界と設定、伏線、魅力を携えているのに。

 これは結果的にカブラギという社の所有物いちサイボーグが再起して、異端(バグ)に走り、英雄になって帰ってくる場所と相手も持っている、そういう王道の英雄譚だ。

 そしてこれは、カブラギというサイボーグの勢いにすべてを任した“セカイ系”なのだ。

【惜しまれるは……?】

 二期分の尺がなかったことか、または――方向性か。

 どういうものに人が共感するかは、リサーチとらなきゃわからないので、別にいいのだが。

 あのドラマのなかで、ギアの素体でもって死さえ娯楽とするサイボーグを基点に展開される、あの話のなかで、カブラギにどこまで移入できただろう、追ってきた者の多くは。

 カブラギは昼行灯のだれたおっさんとして登場した。

 が一方で、システムの匙加減以外では基本的に不死身のおっさんサイボーグだ。

 いや、なにが言いたいって、「真実を黙って人類さえ娯楽と管理社会のために消費しているサイボーグ」と「真実を知らずにいるタンカー(人類、殺されるとわりとあっさり死ぬ)」、という対立したエモい展開を初手に挑戦してくれたのはありで、大いにやってほしかったんだ。

 いや、ちゃんと描けてたんですよ。

 ただ、その基点にいるのがふたりとも“バグ”だっただけで。

 先述の通り、デカダンスはカブラギのセカイ系(結果)全肯定物語だ。

 なぜなら、カブラギは終始、目的を持ってからは、ナツメのところへ戻ること、彼女を救うこと、彼女の助けになることを求めてときとして独善的ともとれる行動をする。

 そして結果、社会を変革して、まわりはそのお膳立てをすることになるのだ。

 行動の道理と筋書きは確かにはっきりしていた、そして一クール内で終わらせるにはこういうことにも仕方なしになるのだろう。

 じゃあ、魅力的なアクションとカブラギさんセカイ系の盛沢山の結果として、なにが切り捨てられてしまったか。ざるをえなくなったのか。

 サイボーグに騙されてきたタンカーら、デカダンスにまだ住んでますよね。で、フェイたんやリンメイたんら、“普通のタンカー、人間さん方は、システムの真実を知っていますか?”

 この世界の(人間サイドへの)残酷で淡白な事実は変わらない。

 それは最終話のカブラギとシステムとの対話で、ある程度確定している。

 この物語の主題は、たぶん“バグ”の必要か否か、その存在意義にあったのだ。それがサイボーグであっても、タンカー(人間)であっても、わりと関係ない。

 バグであるナツメと、バグに堕ちていく(?)カブラギのふたりの生きざまを妥協なく全肯定されるまでの物語。

 だからバグでない、凡俗で、果たしてサイボーグらほどの知性のあるかも定かでない“愚かな人類”は、捨て置かれている。

 異端は肯定されたが、平均的に愚かな人類は真実をわりと知らない。

 デカダンスが危機に見舞われると、わりと中できゃぁきゃあ何事かと喚くしかないし、もうガドル全滅達成されたからその肉切り売りできない。わりにほいほい根本的な生活様式の変更を迫られてる機会が多いけど、そこらへん、取り敢えず勢いでなんとかなっちゃってるな。タンカーサイドから、文句のひとつぐらい言ってもよかったとおもう。

 というかデカダンスの閉鎖するって絶望的な状況さえ、わりと勢いでどうにかまとまってる。

 この世界、ナツメ以外の純粋な人間(特に戦闘力を持たない、クレナイ以外の残り)に手厳しすぎやしないか……?

 そういう意味で、タンカーとしての弱者、盲目というか真実を知らずに話とともに畳まれていった人々、不憫に感じて。

 一方で、カブラギとナツメのセカイ系という文脈、バグという命題を踏まえて見ていると、ほんとうに面白いのです。

【やはり視聴者の読解力を試しに来てる】

 広大なゲーム的世界観、その裏でのしかかる管理社会、システムにおけるバグ、社会における異端の是非、そのうえでドラマとして踏まえるところはすべて備わっている。

 伏線の使い方もうまかった。ドナテロのギア素体、中の人の声とビジュアルで早々に出てたし、それがその後の、あの処分場からのログインというのも、よく練ってた。どん底から這い上がり続けるカブラギさんの逆転劇は続くよどこまでも。

 大筋という意味ではそう、非常によくまとまっていた。

 ただし、『これはサイボーグの話である』という前置き(説得力を持たせて)にたどり着くまでが、少々尺を要するのだが。

 ただ、社の資産であるサイボーグさんと人間さんの設定や倫理観の違い、そういう話までは深く突き詰めなかったですね。敢えて削ったかもしれないすけど。

 あのサイボーグらの人間蔑視は「たかがタンカーのために」という風に節々で見え透いてたけど、タンカーの側からサイボーグ陣営へ憎悪を剥き出しになるとか、そういう残酷な展開にはならないでいたので。でもそういうところ、尺さえあってくれたなら、もっと見たかった感、あるのよなぁ……。

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