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提示されたものが死だとしても

深夜に96歳の男性が「ラーメン食べたい」と言ったら、どうしますか? 「ほどほど幸せに暮らす」を目指す事業者の挑戦

この記事に寄せて。

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病院に勤務していたときに、COPDという慢性の肺疾患を抱えている70代の男性が、誤嚥性肺炎で入院してきて、リハビリの担当になった。


普通の水分を取ると、食道ではなく気管に水分が入ってしまう。その状態を日常的に繰り返しているとそれに対する「むせ」もなくなってしまうのだが、むせがなくなると入った水分を外に出せなくなって肺炎を起こしやすくなってしまう。さらに、炎症を起こすその肺は長年の喫煙で変性し、酸素を取り込む量が減っているので、少し量の多い誤嚥があってあっという間に人工呼吸器レベルになってしまって、それでも一命取り留めてやっと人工呼吸器が外れて病棟に来たのだった。


そこからのリハビリは、言語聴覚士が嚥下の評価をして食形態を決めていき、理学療法士は少ない酸素でどこまで安全に運動できるか評価しながら生活レベルを回復させていきつつ体力の回復を目指すことだった。どんなものを食べてどのくらい動けば、自宅に帰ってから「再びひどい肺炎を起こさなくて済み、肺疾患の中で自分で歩ける生活を維持できるか」を見極める、ということだ。


だから、リハビリ職は、それが見極められるまで「決められた食形態」で「決められた運動範囲」を守らせなければならない。病棟の看護師さんやドクターと相談しながら、「安全のライン」をどこまで拡大できるか毎日考えながらリハビリに入っていた。


ご本人もご家族もとても理解力があって、生活がそういう段階にあることを、頭でも感覚でもわかっていらしたと思う。
けれども病棟に戻って数日後、患者さん自身がこんな要望を仰った。


「朝のコーヒーを、絶対に、とろみなしで飲みたい。」
「ずっと長い間、そうやって毎朝コーヒーを飲んできた。」


そもそもサラサラの水分は、水であれ何であれ、ゴールとしても想定できないくらいの嚥下機能しか確認できていなかった。だから、医療者は全員一致で「説得」に入った。それやったら死にます、とまで、みんなが言った。


その過程で、わたしは初めてコーヒーにとろみをつけて、自分で飲んでみた。クソまずかった。(失礼。)


そして、PTの先輩たちと、人生の幸せとは何か、という話をした。
毎日飲んでいたコーヒーが、自分の身体の状況が悪くてクソまずい状態でしか飲めなくなったとき、それを受け入れるしかないのか。
コーヒーをそのまま飲んでいたら、あの苦しい状況に簡単にもう一度陥ってしまうこと、そんなことは百も承知で絶対に飲みたいというものを、どう説得したらいいのか。


この人はきっと、どこかの過程で、大好きだったタバコも辞めさせられた。それをできた人が、今は、死んでもいいからコーヒーをと言っている。
そんなに強い意志はどこから出るのか。生きるとはなにか。それを聞いた自分たちはどうすべきなのか。
明確な答えなんてあるはずもなかった。


自分の3倍も長く生きてきた人に、飲んだら死にますよ、と、わかりきったことを毎日言うこともなんだかとても憚られたし、かと言って、わたしは理学療法士なのだから、飲みたい気持ちわかりますよ、と、簡単に同意をしてもいいのかわからなかった。同意は、ときに、承認として捉えられることだって、あるのだ。


家族とも相談した。家族は好きなものを飲ませてあげたい、と言った。家からコーヒーセットを持ってきていた。
本人の意思も、断固として変わらなかった。
医療者は誰もが、ずっと、やめてと説得していたけれども。


その患者さんは死んでしまった。


わたしは今でも、あそこで自分が何を言うべきだったのか、わからない。


命の前ではくだらないことかもしれないが、医療者にとっての医療には、入院期間や入院費用やマンパワーの限界が常に提示されている。100人の患者さんが自由意思と共に行動したら、病院はすぐに破綻する。


リハビリは、もとの生活や次の生活を想定して進めていくので、それでも限界まで本人たちの意思や希望を実現しようというマインドセットが働く職種なのだけれど、それでも、希望と現実のどこかにラインを引きながら仕事をするしかない。


病院を辞めたあと、訪問リハビリに入るようになって、そのラインは少し患者さんに近づいた。生活の中で患者さんをみる仕事は楽しかった。でもやっぱり、医療者には医療者の倫理があるんだと感じることもたくさんあった。
患者さんにも、いろんな人がいる。


自分の意思を貫き通すことが「生き方」である人もいれば、
周りに心配をかけない程度に意思を通すことが快適な人もいる。
誰か専門家の言うことをきちんと守ることが安心だという人もいるし、
隠れて秘密の約束破り(笑)をし続ける人だっている。


全て、何も悪くない、その人自身の姿だ。


だからきっと、本当に、答えなんてないのだ。
唯一あるとすれば、患者さん本人の中にあるのだろう。


この記事を読んで、患者さんが「食べたい」と「わがままを言える相手」として介護士を認めているということが、そのわがままをわがままと理解して許容できる人間関係を築いた介護士が、素晴らしいと思った。


あなたのわがままのその責任、少し、わたしが引き受けましょう。介護士の気持ちは、そういうことなんだろうと思う。


わたしがその場にいたら、どうしただろう?
そのひと口で死んでしまった患者さんを思い出して、怖くて止めたくなるだろう。
同時に、そんな自分のエゴに患者さんを巻き込むことが、嫌になるだろう。

できればわたしもその人の、ほんの少しのわがままの責任を、一緒に背負ってあげられる人間では、ありたい。


自分自身が同じ状況になったら、死んでもいいから食べたいと思えるだろうか。
それを伝えたい相手がいるだろうか。
食べたいという意思もないのに、生きていることって、どういうことなんだろうか。


いつまでたってもわからないことばかりだ。
答のないことばかりだ。


間違いないのは、迷いの中で現場にいる人たちは、いつだって素晴らしいということだ。