「No Logic」の奏でる優しさと「秋山瑞人の冷戦民話」に対する個人的考察


1.No Logicの良さについて語りたい

 流行りに十年遅れている気がするが、ここ数日No Logicという曲にはまっている。メロディの良さもさることながら、なんといっても ちょっと突き放した感じの歌詞が魅力的に感じる。No Logicの歌詞は「~じゃないの」という聞き手に対する無責任さを隠そうとしないし、「自分が不器用」で「神様」の示す完璧な状態を目指さなければ「いつか後悔」することを理解した上でマイペースを貫こう、という趣旨である。
昨今はNo.1よりオンリーワンを目指せといった趣旨の歌詞が多いが、正直この風潮には納得できない。競争を辞めるという選択肢は存在しないと考えるからだ。例えば大学受験でNo.1を目指すのではなくオンリーワンを目指せと囁く人がいたらどうだろうか。これがおかしいことは誰でも分かるのに、オンリーワンな生き方を目指せと言われると皆首肯してしまう。しかし、こう考えてみてほしい。あなたの所へ二人の採用希望者がやってきた。一人は華々しい経歴を持つが没個性的、もう一人は十年引きこもっていたが、とても個性的だ。あなたはどちらを採用するか。答えは前者であろう。なぜなら前者の方が有能である蓋然性が高いし、仮に仕事のできない人であっても社内に言い訳が立つからだ。悲しいかな、社会は個性があるというだけで人を採用するほどベンチャーではない。
まして、個々人が粒子化された現代都市化社会においてはコミュニティ構成員への関心は低下するため、他者の個性(オンリーワン)を顧みるものは少なくなり、個人は学歴や年収といった定量的尺度で観測されるようになる。個性はバックグラウアンドがあって初めて役立つもので、それのみではスタートラインにすら立たせてもらえないのだ。
閑話休題。そうした現実論を置いてけぼりにする歌詞が多い中、No Logicの歌詞は上っ面の綺麗事を唱えるのではなく、あたかも老子の「知人者智」のように、自らの限界を知りつつも、努力は放棄しないというスタンスを明示していて、これが独特の魅力を生み出している。

2.なぜ「ゼロ年代」は我々の心を打つのか?

 さて、この他にもゼロ年代から十年代初期までのものは不思議と共感できるものが多い。これはどうしてであろうか、折角なので少し考えてみたい。考えうる最も単純な解釈では私(とゼロ年代に青春を過ごした諸賢)が「ダグラス・アダムスの法則」の呪縛から逃れられていないだけということになるだろうが、敢えてそうでない解釈をするならば、現代の歌詞よりも実際上の現実的側面に光を当てているところが魅力を生み出していることが挙げられるであろう。 理想と現実を隔てる壁を社会の誰もが認識しつつ、理想を唱えているから無意識化に価値観が相対化されて「優しい肌触り」になるのではないかと思う。
さて、以上のように時代性というふわっとした言葉でゼロ年代を語ることに回顧主義だとか、過度の抽象化であると見る向きもあるだろうけど、私はそう考えていない。例えば「SF」について、近未来的ガジェットや哲学的思索に富む作品群を指すとの説明は誤っていないが、SFが何たるかを言語によって語りつくすことは極めて難しい。つまり、本格的にSFを理解するためにはSF界隈で評価の高い作品をある程度読み込んで、そこからSFマニアの共同体が無意識に包含している価値観の集合体を理解するほかにない。これを「価値尺度のすり合わせ」と個人的に呼んでいるのだけれど、界隈の価値尺度がソリッドなSFならともかく、マス層を相手にするポップカルチャーのそれは専ら当代の社会通念によって決される。つまり、その時代を生きていない人に何が「ゼロ年代」的であるかを語ることは語りたい相手を当時の作品にどっぷりと浸からせる以外の方法では不可能なのだ。ゼロ年代作品をゼロ年代的たらしめる最大の要素は当時の社会通念であり、技巧、作風といったものはそこから生み出された付随的なものに過ぎないと言っても間違ってはいないだろう。
この点、秋山瑞人氏は自らの作品をして「あの頃のあの時代にあって生まれた民話」と総括している(注1)が、誠に正鵠を射た指摘だと思う。
ということで「現代のカミサマ」の価値観の良さは否定しないけれど、私は「ゼロ年代のカミサマ」を信じ続けたいなっていうお話でした。(了)

注1:「UFOの日:秋山瑞人からのメッセージ
カクヨム原本削除のため、秋山瑞人ファンブログより孫引き。2023年9月10日閲覧。

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