桐島 聡の死を見て思うところあり

 指名手配犯・桐島 聡の死について「勝ち逃げ」という言う者がいる。それ否定する者もいる。しかし、私は勝ち負けとは別の次元の何かを桐島という武装革命家の最後に感じている。

 まず疑問を一つある。なぜ桐島 聡として死ぬ必要があったのだろうか?桐島の最後は実質的に野垂れ死にであることは否定しないが、名乗るという行為とは無関係であることに注意したい。なぜなら桐島聡と内田洋のどちらであっても「身寄りのない無保険者」であることには変わりなく、あの病状であれば医療費はどちらにしても行政負担となるという点も同じだからだ。ならば内田洋のままであれば、内田洋として知り合った友人らくらいは最後を悲しんでくれたかもしれない。少しはマシな最後だったように思う。
けれども彼はそれを拒否し、世紀の大犯罪者の一人として死んでいった。それを自己顕示欲と解釈する向きもある。しかしそれは彼の「後悔している」という発言に矛盾する。

 彼のような高学歴な革命家というのは「感じやすくて近眼視に陥りやすい傾向はあるが、概ね理論的である」と私には見える。ならば桐島の後悔が長期にわたる国内潜伏と最期の名乗りに繋がっていると仮定して推測してみるのは無意味ではないように思う。
 単純に人を傷つけたことを悔やんでいるのならば自首すれば理論的には清算されるため長期潜伏の理由を説明できない。日本の司法への不信感を理由とするには東アジア反日武装戦線のメンバーに服役して出所したものがいる以上、根拠として弱い。 国内に潜伏していたことについても、海外の危険度やコストを理由に帰国したと解釈している者がいるがそれは根拠として弱い。複数の東アジア反日武装戦線のメンバーが国外逃亡を継続中であること、無保険では医療も海外と変わらないことを踏まえると日本にこだわる意味は薄い。 

 ここで私は東アジア反日武装戦線の大道寺 将司が行った次の自己批判が重要になると考える。

ぼくたち自身日本人民の一員であり、日本人民を否定しようが肯定しようが日本人民と共に歩んでいかなくてはならない、という最も基本的なことを忘れてしまっていた。

大道寺将司書簡集 明けの星を見上げて

 この自己批判を桐島が認知していなかったとは思えないため、最期に述べた後悔とはこれに影響されたモノと推測する。
 桐島は「日本人と共に歩む」という実践によって革命活動に自分なりの総括を試みていたというのが私の見立てである。そして最期に名乗ることによって「最も基本的なことを忘れた」者の末路と「日本人民と共に歩む」という実践の足跡を未来の革命家(日本を憂いる人々)に示したのだと考える。   言ってみれば桐島は人生をかけて革命を総括して、死に様よって署名をしたのである。
 桐島が藤沢において地域住民との交流があったことは、この見立てと矛盾しない。少なくとも地域との交流は逃亡犯としては非合理な行動であり、用心深さが特徴であった桐島の犯人像とは矛盾している。 

 以上のことから勝ち負けではなく、死してなお革命的努力の最中という解釈が僕の中ではしっくりくる。ただ、この見立ては仮説に仮説を重ねたあやふやなものであることは否定しない。実際には自首することも、世間と隔絶することも、日本を捨てることもできなかった優柔不断の人生と本名への感傷から名乗っただけの可能性もある。

 しかし桐島の件を抜きしても、大道寺の自己批判は中々に正鵠を射ていると思う。昨今、何かにつけて「海外では~」という枕詞で日本社会を非難する人は多い。中には海外に脱出することを喧伝する人もいる。しかし我々が日本人であるという現実までは削除できない。
 ならば、日本において日本のやり方で日本を良くすることを考えることが建設的な姿勢だと思う。さもなければ「どこの誰でもない人」として桐島よろしく野垂れ死ぬということなのではないだろうか?
 何かと出羽盛になりがちな私達は、歴史的事件の登場人物の振る舞いを見て少しは我が振りを見直すべきなのかもしれない。

追記:桐島聡の居室からは思想書の類は出なかったそうだ。 このことは彼が信念を持っていたという仮定とは矛盾するかもしれないが、彼が「ただの日本人」を実践しようとしていたという仮説を支持すると考える。

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