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法廷傍聴控え 覚せい剤密売イラン人グループ事件1

昔、こんな事件がありました

 1997年2月24日、東京・霞が関にある裁判所ビル。7階の東京地裁721号法廷では、被告のハミッド(28歳)が証言席の前に立ち、判決を聞く。
「懲役12年、罰金500万円に処す」。求刑は懲役15年、罰金700万円だったから、予期していた内容だろうが、主文を読み上げた裁判長を見つめるハミッドの顔がこわばった。
 各種薬物は没収し、「未決算入500日、罰金を支払えないときには、8000円を1日と換算して労役場留置」などと、判決は続いた。
 ハミッドは、1年前の96年2月12日、東京拘置所で発生した7人のイラン人脱走事件の主犯格だった。この判決でも、「計画を中心になって練り上げた」「一貫して、主導的役割を果たしている」と断定されている。
 東京拘置所からの脱走は、55年以来41年ぶりのことであり、安眠をむさぼっていた日本社会に大きな衝撃を与えた。

 55年の脱走事件は、同年5月11日午後8時過ぎに発生した。一家4人殺しで死刑判決を受け、上告中の男(28歳)が、北1舎3階の独房に収容されていた。
 脱走の準備は、2カ月前の3月、金ノコ2本を入手したことからはじまる。金ノコは、この男から依頼された親戚の男が、別の未決死刑囚あてに差し入れた雑誌の背とじ部分に隠されていた。受け取った未決死刑囚は、雑誌を読みおえたので死刑囚仲間に回覧したいと申し出る。雑誌はそのような経緯で、この男に届く。
 雑誌から取り出した金ノコを使い、窓にはまっている鉄格子に切れ目を入れ、すぐにはずせるようにした。
 そして、5月11日、鉄格子1本を折り取り、体を斜めにしてくぐり抜け、窓の外へ出た。隣接する建物の屋根づたいに歩き、逃走防止用に張ってあった金網を金ノコで切る。さらに、屋根をつたい、管理部門のある2階建ての拘置所本部庁舎から地面に飛びおりた。
 その後、拘置所の外塀を乗り越えて、脱走に成功したのである。脱走は、翌朝発見された。「おわびの申し上げようもありませんが、暫日の命を許してください」という担当刑務官あての書き置きが独房に残されていた。
 緊急手配された男は、13日後に逮捕される。「母親に会いたかった」と脱走の理由を述べたという。

 ハミッドらも脱走には成功したものの、96年11月までには全員が逮捕され、加重逃走の罪を加えて裁判が行われた。7人の裁判から、脱走事件の全容をたどってみよう。

 脱走事件で中断されたハミッドの裁判は、96年6月4日、再開された。721号法廷にあらわれたハミッドは、長身でやせている。緑色の長袖シャツに青いズボンをはき、あごひげをはやしている。通常2人の刑務官が被告を腰縄、手錠つきで連れてくるが、逃走を警戒してか、4人もいる。
 再開公判は、この日から判決公判までに8回開かれた。証人調べ、被告人質問、論告・求刑、最終弁論が行われ、ハミッドの犯罪が浮き彫りにされた。
 ハミッドは、67年、10人兄弟の3番目としてテヘランで生まれた。高校2年で中退し、3年間、兵役につき、イラン・イラク戦争に従軍する。その後、2年間、父親の経営する食肉店で働き、結婚してこどももいる。
 90年11月、妻子を残して、出稼ぎ目的で来日した。90日間の短期滞在資格であったが、逮捕される94年12月まで不法に残留する。
 イラン人の来日ラッシュは、90年ごろからはじまった。当時、ビザなしで入国できる先進国が日本であった。そのため、短期滞在で入国した後、不法残留するイラン人が急増する。
 91年5月時点で約1万人だったのが、同年11月で約2万2000人、92年5月では約4万人とピークに達した。以後、漸減していく。
 さて、ハミッドは、この間、東京・赤羽の印刷関係の工場に3カ月半勤め、その後、埼玉・蕨、同・三芳のプラスチック工場で短期間働き、最後は鉄工所で2年半、寮に住み込んで、日曜日も働いた。この3年間の平均月給は約25万円。短期滞在の資格で働いてはいけないとも知らず、「仕事してくれればいい」と、雇い主も問題にはしなかったそうだ。
 ところが、鉄工所の仕事がなくなり、鉄工所周辺でアルバイトをしたが、94年中ごろには完全に失業する。「日本語の読み書きができないから、ほかの仕事を探せなかった」ので、手を出したのが、「ヤクザから覚えた。そんなに大したことではない」変造テレホンカードの売買である。
 変造テレカを売りながら、さらに、同年10月ごろから薬物密売にも手を染めはじめる。
 薬物密売を開始してから3カ月もたたない、94年12月24日、東京・北千住で、コカイン約30グラム、大麻約40グラム、そのほかに、ビニール袋入りの小分けした大麻、覚せい剤、LSDを所持していたところを、現行犯逮捕された。別のイラン人に密売するものだった。
 これとは別に、94年11月9日、東京・新大久保のファミリーレストランで、コカイン200グラムをイラン人に密売しようとした事件でも逮捕される。
 この二つの事件で、麻薬及び向精神薬取締法、大麻取締法、覚せい剤取締法、出入国管理及び難民認定法の各違反で東京地裁に起訴されたのが、95年1月だった。さらに、ハミッドは東京・足立のウィークリーマンションを借り、そこに覚せい剤、大麻、コカイン、LSDを隠していた事件でも、95年3月、追起訴された。
 押収された薬物は大量で、全部をあわせると、覚せい剤558グラム、コカイン375グラム、大麻587グラム、LSD3グラム、末端価格は約1億3400万円といわれた。
 ハミッドは、逮捕直前の11月、12月のわずか2カ月間で数百万円をイランに送金したのを含め、送金総額は約1000万円に達していた。後に、「以前、送金業もやっていたし、これは自分の金だけではなく、ほかのイラン人たちの金も一緒に送ったので、多額になっている」と反論した。
 薬物を売った相手は、密売人であるイラン人だけではなく、日本人もいた。ハミッドは、新大久保にあった日系ペルー人の「彼女のアパート」に住み、その周辺で日本人相手に密売も行う。
「私の方から客を見つけたのではない。イラン人が売っていることを知っていて、向こうから声をかけてくる。チョコ(大麻樹脂)ありますかと聞かれ、ありますと答える」と弁明した。
 その上、「私はヤクザとつきあうような大物じゃない。単なる末端の密売人」などと、現行犯で逮捕された北千住の事件では営利目的を認めず、ほかの事件は全面的に否認した。
 ハミッドが警察の留置場から東京拘置所に移されたのは、95年5月1日だった。
 半年後の11月21日、ハミッドあてに、テヘランからペルシャ語の本の差し入れがあった。脱走後、拘置所当局が、この本の背表紙の裏に隠された4本の糸ノコを発見した。糸ノコの長さは約13センチ、幅1ミリ。隠したままの状態で、ほかに何か取りだした形跡はない。
 ハミッドは捜査段階ですでに逃走を試みていた。
 当時、取り調べを担当した捜査員は、「94年12月26日、足立のウィークリーマンションを捜索したことがあった。ハミッドも手錠をかけて立ち会った。私たちが捜索していると、いきなり、大声を出して、窓のほうに飛びかかろうとした。みんなで手足をとって押さえつけ、落ち着け、落ち着けといった出来事があった」と、再開法廷で証言したのである。
 ハミッドは今回の脱走の動機について、「証人や証拠を探し、冤罪をはらすため。それをしたら、また拘置所に戻るつもりだった」と供述した。
 検察官が問いただす。

 ──脱獄を最初にいい出したのは、あなたではないのですか
。「全員一緒になって考えました」

 しかし、取り調べ中、懲役10年か15年の可能性があると、捜査員からいわれたこともある。イランから糸ノコ入りの本も送られた。共犯者の供述からみても、脱走の中心人物と思われた。
 逃げたい一心のハミッドは、95年12月28日、ほかの房から北1舎1階1房に移る。

 東京拘置所は葛飾・小菅にある。現在は老朽化した拘置所を逐次新築中だが、イラン人の脱走事件当時、約21万7000平方メートルの敷地に、舎房、本部庁舎、刑務官宿舎などが建っていた。裁判中の未決者を主体に、服役囚も含め約2000人が収容されていた。
 そのうち、外国人は約320人で、イラン人は約60人。原則として、外国人は独房に収容するが、言葉、風俗、習慣の違いなどから、情緒不安定になる者が多く、職員に対する暴行、ハンスト、自殺をはかるなど、トラブルが多発した。
 そこで、数年前から、外国人の精神的安定をはかるため、凶悪犯ではなく、共犯関係もない者同士を雑居房に収容することになった。
 当時、中国人の雑居房とイラン人の雑居房があった。その一つが、北1舎1階1房である。

(2021年10月28日まとめ・人名は仮名)



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