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法廷傍聴控え トカレフ警察官射殺事件4

 2発目を発射した後、高橋はトラックを走らせた。捜査員が1人、トラックの荷台にぶら下がっている。荷台から振り落とすために、狭い道だったがスピードを上げ、信号も無視して走らせた。しばらくして、捜査員が荷台から飛び下りたのがわかった。
 大和市から隣接する町田市に入り、交差点でも赤信号を無視して直進する。乗用車と衝突したが、そのまま逃げた。猛スピードで逃走しているのに交通渋滞の道路に入り込み、他の道に出ようとバックさせたら後ろの車に衝突した。これにもかまわず他の道を走っていたが、その車がクラクションを鳴らしながら懸命に追いかけてくるのだ。
 信号待ちの車の列で止まったところ、その車に追いつかれた。中年の女性が運転席の横にきて厳しい口調で文句をいう。
「ぶつかったわよ。どうするの」
 高橋はそれどころではない。一刻も早く逃げたい。
「うるさいんだよ」
 拳銃を突きつけた。女性は驚いたようすであとずさりする。高橋はすぐにトラックを発車させたが、間もなく住宅街の行き止まりに突き当たった。捜査員の追跡は振り切っていたが、車のナンバーは知られている。男の子をトラックに残したまま、逃げることにした。
 横浜市緑区の長津田である。このあたりは丘陵地帯を開発した住宅街だが、雑木林もたくさん残っている。その林の中に逃げ込んだ。拳銃を人に見られないように、右手に持ったままジーパンのズボンの右ポケットに入れた。
 林を歩いていると、上空にヘリコプターが飛んでいるのが見えた。警察のヘリコプターらしい。すでに服装も手配されているかもしれない。高橋は黒のシャツの上に青のポロシャツを着ていたが、ポロシャツを脱いだ。歩いて行くと団地があったので、水を飲んだり自転車置き場で休み、再び林の中に戻った。

 これからどうして逃げようかと考えた。やはり、車を奪おうと思った。

 ヘリコプターの音が聞こえなくなったので、高橋は林から道路に出て、奪う車を探しながら歩いた。すると、道幅3メートルぐらいの細い道の両側に家が10軒ほど並んでいる。あたりを見回していると、黒色の車がゆっくりバックで向かってくる。
 ドイツ製のBMWだ。高橋は立ち止まった。この車を運転していたのは、ちょうど高橋が立っている横の家の主婦(32歳)である。午後6時ごろだった。
 夫と小学2年の長男、幼稚園の次男の4人家族だが、この日は、お昼ごろから遊びにきていた、こどもの友だちを車に乗せて、1キロほど離れた田園都市線のつくし野駅まで送って帰ってきたところだった。2人のこどもは留守番をしていた。自宅の前の道路が狭いので、この主婦は、30メートルぐらい離れたバス通りからバックで入るのが、いつものやり方である。
 事件の翌日、この主婦は警察に次のような供述をした。

 ──私の家の玄関近くに若い男が立ち止まって、周りを見回すような素振りをしています。「私の家に用がある人かな」と思いましたが、それにしては変な感じだったので、早く家の中に入ろうと思いました。しかし、玄関の脇の駐車スペースに入れるには男が邪魔になります。
 私は男がバックしてくる私の車を待っているのかもしれないとも思って、車を止めて、運転席の窓を10センチぐらい開け、「どうぞ」と手を振っていいました。すると、男はいいですよといったような気もしましたが、はっきり聞き取れません。
 いやな感じがしたので、すぐに車の窓を閉めました。今度は前進して駐車スペースに止めました。すると、運転席の横にきて、「ちょっと、すみません」といったかと思うと、何か口ごもっている感じでした。
 何かなと思って運転席の窓を少し開け、「なんですか」と尋ねると、いきなり腕を車内に差し入れ、ドアのロックを外してドアを開けました。怖くなってどうしようと思いました。
 男はドアの外で立ったまま、「逃げるから隣の助手席にいけ。さっき警官を2人撃ってきた。1人を殺した。ほら、上を見ろ。ヘリコプターが飛んでいるだろ」と、興奮した声で、半分顔をひきつらせた感じでいいました──

 この時点では、高橋は山中巡査が死んだことを知らなかった。脅しの意味で大袈裟にいったのか、それとも、主婦が記憶違いをしたのか。その辺は定かではない。主婦の供述を続けよう。

 ──さらに、「拳銃を持ってる」といって、右手に銀色でつるつるした拳銃を突き出したのです。私はこのとき、まだ男のいってることが半分信じられずにいましたが、釣り上がった目で、その拳銃を私の目の3センチぐらい前まで近づけたのです。
 そして、「逃げるために使うから、隣に移ってくれ。お前も一緒に来い」と。声はそれほど大きくなかったのですが、いやをいわせない迫力のある感じでいわれ、先ほどまで半分嘘と思っていた気持ちも吹っ飛びました。私は拳銃を突きつけられ、左手で助手席側に押し倒され、上体は仰向けになりました。
 私はこのまま連れ去られて殺されるのではないかと、恐怖でいっぱいで、必死で男に、「私にはこどもがいるの。車を使って逃げていいから、私をおろして」と哀願しました。しかし、男は顔に突きつけた拳銃をさらに前に出すようにして、車内に入ってこようとしました。
 私は殺されると思って、その銃口を右手の手のひらでふさぐようにして、拳銃の先を握り締め、必死の思いで、つい、「撃ってもいいけど、私をおいて、この車で逃げていいです」といってしまった。撃ってもいいといったのは、本当に撃ってもいいという意味ではなく、私を下ろしてこの車で逃げていいという気持ちが、そんな表現になったのです。
 このとき突然、「ダーン」というすごい音がして、私は「あっ、手に穴が開いた」と瞬間思いました。障子の紙が破れるように、手のひらのほうから甲のほうにかけて貫通したのです。穴が開くのが見えたのです。その後、痛さと恐怖で我を忘れて、「助けて、助けて」と何度も何度も半狂乱のように叫び続けました。
 このとき、男はちょっとためらった感じで、後ろに下がりました。私はこのときと思って、上体を起こし、男の片腕にかみついて、ひるんだ男の前を通り抜け、車の外に出て、「助けて、助けて」と大声をあげたのです──

 この出来事について、高橋は次のように供述した。

「これは自分の意思で撃ったのではなく、女の人を助手席のほうに押し込もうとしたとき、女の人の手が銃口をふさいだ形になって拳銃を振られ、引き金に指が入っていたので、引いちゃった。

 怪我させようとか殺してやろうとかは思わず、車だけ取って逃げるとすれば、すぐに通報されてしまうと思い、無傷のまま人質にしようと思った。弾が出たとき、自分もびっくりして、呆然として突っ立ったままになって、女の人が車から出た。腕はジーンとしていたが、痛みは最初わからなかった」

 主婦の手のひらを貫通した弾が、主婦の首のあたりを押さえていた高橋の左腕に命中したのだ。腕から血が出る。驚いて車の中に入れていた上体を元に戻し、車から少し離れて立ちすくんだ。これを見た主婦がとっさに車から飛び出したのである。
 弁護人が公訴事実について反論した点の一つは、この主婦に対するものだった。検察官は殺人未遂としたが、これは殺意はなく、拳銃が暴発したというものである。
 ともあれ、この車を奪うのに失敗した高橋は、近くの起伏のある雑木林に逃げ込んだ。再び上空からヘリコプターの音が聞こえ、パトカーのサイレンも耳に入る。雑木林の中で、しばらくようすをみることにした。

 そのころ、神奈川県警は拳銃を持った殺人犯が逃走しているというので、付近住民に厳重な警戒を呼びかけ、必死の捜索を行っていた。午後7時過ぎ、神奈川県警広報課は「弾が残っている可能性が高いので、現場で取材している記者は注意してほしい」と伝えた。
 回転式拳銃の場合、装填できる弾は5発か6発が平均だ。自動式拳銃では、7連発とか8連発が普通である。それに補充用の弾を所持している場合も多くみられる。たしかに、まだ弾が残っていると考えるのは当然のことであった。
 そのうえ、高橋の所持している拳銃の種類が特定されつつあった。回転式の場合は弾を撃っても、撃ちがらの薬莢は弾倉に入ったままだが、自動式の場合は撃つと外に薬莢が飛び出す。高橋の持っている拳銃は自動式だから、撃ちがら薬莢を現場に残していた。また、“最後の8発”を大切に布製の袋に入れていたが、これも落としてきた。
 この弾は薬莢の底に刻まれている、製造者や製造年を表すヘッドスタンプに特徴があった。時計の12時の位置に数字の11と読める縦の線が2本、6時の位置に2桁の数字で90と刻印されていた。11というのは、中国の第11製造所の意味で、90とは、製造年の西暦表示の下二桁を表し、1990年につくられたものと考えられている。
 このような薬莢の特徴があれば、この弾を使う拳銃は一つしかない。それに刑事たちは銀色に光る拳銃を目撃している。トカレフに間違いない。これまで日本国内で多数押収されていた。7月8日の夜、警察庁サイドから、トカレフらしいとの情報が流れた。トカレフならば8連発だから8発装填している可能性が強い。
 これまで高橋は山中巡査、横田警部補に別々に発砲し、それと防弾盾で防いだ捜査員、主婦に対して合計4発撃ったと見られていた。すると、あと4発は残っているかもしれない。そこで、県警広報課の注意になったわけだ。

(2021年11月18日まとめ・人名は仮名)


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