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法廷傍聴控え 会社社長射殺事件1

昔、こんな事件がありました。

 裁判長が起訴事実に対して、被告の意見を聞く。証言席の前に立った木下友則(44歳)は直立不動の姿勢で、顔だけ上に向け、しぼり出すような声でいった。「私はやっておりません。被害者のマンションに行ったこともありません」
 そういった後、被告はかけていたメガネを外し、白いハンカチをポケットから取り出して、しきりに涙をふく。
 木下被告の初公判は、1992年12月24日、東京地裁で開かれた。木下被告はグレーの上着にブルーのズボン、中肉中背で頭髪を普通にわけている。一見では平凡な中年男性だ。
 検察官が読み上げた起訴状によると、木下は、91年11月27日午後10時30分ごろ、東京・渋谷のマンションで、会社社長の上原幸夫さん(43歳)を射殺し、ダイヤモンドの裸石4個(時価約300万円相当)と外国製の紳士用高級腕時計(時価約200万円相当)を奪ったというもので、強盗殺人と銃刀法違反、火薬類取締法違反で起訴された。
 新聞報道によると、捜査段階で全面的に自供したといわれていた。ところが、逆に全面否認するという思わぬ裁判のスタートになった。罪状認否で全面否認した後、被告は弁護人席の前に設けられた被告席に座る。続いて、検察官が冒頭陳述を早口で読み上げる。冒頭陳述と採用された関係者の供述調書によれば、木下の生い立ち、犯行の動機、犯行状況はおおよそ次のとおりである。

 木下は都内の私立高校を卒業し、農学系の私立大学に入学した。しかし、医学部進学を志していたので、この大学に通学せずに除籍される。進学塾でアルバイトをしながら、国立大学医学部、私立医大を受験したが、結局、合格できず、医学部進学をあきらめた。
 その後、87年、財団法人全国学友会(仮名)を3000万円で買い取り、理事になる。東京・代々木駅前の10階建ての古いビルの2階に事務所を借り、同会の事業として家庭教師派遣業を行う。
 同じころ、輸入雑貨の会社を設立したり、90年末の一時期、東京・新宿の歌舞伎町でスナックも経営した。
 しかし、いずれの事業もうまくいかず、銀行、ノンバンク、知人、内妻の伊藤弓子らに多額の借金があった。暴力団の経営する金融会社からも金を借り、返済が滞って殴る蹴るの乱暴をされたこともある。
 毎月月末が近づくと支払いに困り、代々木駅前の事務所に行くにも、債権者に会わないようにするため、早朝か夜遅く、日中であれば電話で取り立て人が来ていないことを確認した上で、ようやく顔を出す状態となった。
 91年11月の事件当時、合計で3億2000万円の借金があり、そのうち、11月末に返済しなければならない金は450万円であった。
 一方、91年8月下旬、木下は車を運転して、渋谷・松濤にある上原のマンションの前を通った。このマンションは渋谷の東急百貨店本店の脇を通り、東急文化村を過ぎ、閑静な高級住宅街の一角にある。壁は薄茶色の2階建てで、1階に2室、2階に2室の合わせて4室という小さなマンションだ。前の道路はこの区域のメインストリートであり、自動車の行き来は多い。
 木下が通りかかったとき、このマンションの地下にある車庫から急に飛び出してきた赤いフェラーリと接触しそうになった。後に、知人の鈴木信二から、この車の持ち主は上原で金持ちであることを知る。それならば、500万円ぐらいの現金はマンションに置いてあると思った。
 同年10月中旬、上原のマンションを下見した。マンションの入口はオートロック方式なので、上原が帰宅するのを待って、脅して1緒に入ろうと考えた。それには凶器が必要と考え、11月初旬、自分の経営していた歌舞伎町のスナックに出入りしていた台湾人ならば、台湾マフィアとつながりがあり、拳銃を入手できるかもしれないと考え、その台湾人に拳銃の入手を頼んだ。
 1週間後、手にした拳銃が中国製のトカレフであり、拳銃1丁と弾10発で60万円を支払った。
 トカレフを手に入れた木下は、11月25日、上原を殺害して金を奪おうと、2回、マンションの入口で見張ったが、上原とは出会わなかった。2日後の11月27日午後8時ごろ、代々木駅前の事務所に顔を出し、事務所を出て路上に止めた車の中で、塾生のために裏口入学用の論文の添削をはじめた。そのときにも、借金の期限のことが頭をよぎる。
 午後9時半ごろ、鈴木に連絡をとり、「1時間後に新宿で会おう」と約束した後、午後9時50分、上原のマンション前に到着した。入口近くの路上に車を止め、上原の帰宅を待った。

 午後10時20分過ぎ、上原が歩いて帰ってきた。そこで、木下は車のコンソールボックスの中から折りたたみ式のナイフを取り出してズボンのポケットに入れた。さらに、ダッシュボードのあたりから2発入りのトカレフを取り出して上着の内側に隠し、軍手をはめた。顔は隠していない。
 上原がマンションの入口の脇にあるテンキーで暗証番号を押し、ドアを開けて入ろうとするや、直ちに引き続いて入った。
「上原社長」
「なんだ」
 木下は上原の顔を写真で見たことはあったが、直接、面識はなかった。そこで、確認のために名前を呼んだのである。
「すみません。フェラーリのことで相談したい」
「だれだ。帰らないと警察を呼ぶぞ」
「静かにしろ。部屋で話をしよう。動くな」
 上原は身長172センチ、体重63キロ程度のスマートな体格で、空手をやっていた。一方、木下は165センチほどで、スポーツとは無縁の中年男性という感じである。しかし、木下は右手にナイフ、左手にトカレフを持って脅しながら、階段を昇り、2階の上原の部屋に押し入った。
「金を出せ。金庫はどこだ」
 金庫のある寝室に案内させた。
「金庫を開けろ」
「金庫には何も入っていない。むだだ」
「ふざけんな」
 木下はトカレフのスライドを引いた。ガチャという音がして、弾が薬室に送り込まれた。いつでも撃てる。上原の差し出した金庫の鍵を受け取り、金庫を開けた。上原のいうとおり、金はない。
「ほんとにないのか」
 すると、上原は腕にはめていた外国製の金色の腕時計を差し出した。
「これを売れば、金になる」
「財布を出せ」
 中には1万円札が20数枚入っていた。
「クズダイヤだが、金になる」
 上原は桐の箱に入っていたダイヤの裸石4個も指し示した。
「まだあるだろう」
 木下は問い詰めたが、もうないという。上原はベッドにうつ伏せにさせられていた。顔を見られているので、上原の頭部にトカレフの銃口を突きつけ、1発撃った。
 マンションを飛び出した木下は、鈴木の待つ新宿・西口にある銀行の前に向かった。午後11時30分ごろ、鈴木と落ち合い、代々木駅前の事務所に行く。
 翌日の朝、通いの家政婦が寝室のベッドで死んでいる上原を発見した。頭から流れ出た血で、頭の下のシーツは真っ赤に染まっていた。家政婦は警察に通報し、救急車も駆けつけた。
 右側頭部、耳の4、5センチ上に少し崩れた星の形の射入口があり、前額部左側に射出口があった。ベッドの脇の床に、上原の命を奪った弾が一つ、近くに空の薬莢も落ちていた。
 凶器のトカレフは、翌92年2月下旬か3月ごろ、東京湾フェリーで川崎から木更津に向かう途中、海に捨てた。奪った腕時計は身内にやり、その妻が使っていた。92年9月ごろ、遅れるようになったので、近所の時計店に修理に出し、それが警察の品触れの中にあり、通報された。ダイヤの裸石も、木下が寝泊まりしていた伊藤方から発見された。

 検察側の主張は以上のとおりである。トカレフは捨てたというので押収されなかったものの、ダイヤの裸石と腕時計は物証として提出され、木下が確認した。その際、所有者などについて聞かれた。
「腕時計は兄にあげたものだが、だれから貰ったかは、いま、ちょっといえません」
 しかし、裁判長から再度、強く問い質される。
「友だちからもらいました。91年12月ごろで、だれにもらったかは、あとでいいます。ダイヤについても、あとで詳しくお話しします」
 弁護人は60歳前後の恰幅のいい男性で、私選である。裁判長は弁護人の意見もたずねた。「被告は虚偽の自白をしている。警視庁で接見したときも、この部屋には盗聴器があるとか(他人の罪を)かぶっているとかいっていた。十分な審理を尽くしてほしい」

(2021年11月20日まとめ・人名は仮名)



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