見出し画像

法廷傍聴控え 覚せい剤密売イラン人グループ事件4

“ゾルファガル作戦”は成功したものの、早くも脱走5日後の2月17日、千葉・船橋のアパートに潜んでいたラゾギが逮捕された。「テレビや新聞にも脱走のことがのっていたので、心配で、とても不安だった。外に出ると警察に捕まるので、アパートの部屋にずっといた」。
 2月23日には、埼玉・草加のアパートで、ハミッドとボゾルギが逮捕される。そのとき、変装していたハミッドは、「自分はハミッドじゃない」と叫んだという。
 3月13日、愛知・豊田で、シャロッキー、5月4日、埼玉・草加で、バンザーデが逮捕される。
 7月10日、埼玉・新座で逮捕されたアーマドは、新たに脱走に関して加重逃走罪に問われ、9月10日、東京地裁で懲役1年2カ月の判決を言い渡された。すんなり閉廷かと思ったら、アーマドは、証言席の前に立ったまま、裁判官に話しかけた。

「今回の事件で、拘置所でかなりの仕打ちを受けています。これで、また送り帰されるのは大変つらい。まだ逮捕されていないメマンドのことについて情報を提供する用意があります。どうか、私のことを調べてください」

 取引を持ちかけたのである。

「裁判所にはそういう権限はありません。拘置所職員にいうように」

 裁判官は退けた。しかし、必死に訴える。

「メマンドの居場所を知っているので、取調官を派遣してください」

 裁判官はとりあわない。傍聴席にいた刑事らしき男性が2人、にやにや笑いながらこの話を聞いている。閉廷後、2人は廊下にある公衆電話の受話器を握る。
 それから2カ月もたたない、11月19日、ただ1人逃走していたメマンドが山梨・富士吉田で逮捕された。
 脱走計画の中では、「フィリピンに行く、中国に行く、イランに帰るとか、いろいろ話していた」(シャロッキー)。出国する手はずも、「偽造パスポートで逃げられる」(メマンド)はずであった。しかし、逃げ切れなかった。
 メマンドは逃走中に、懲役7年の刑が確定した。2月3日、加重逃走の初公判が行われ、弁護人の被告人質問に答えた。

 ──9カ月の逃走期間中、どうでしたか。
「非常につらく、1カ月が1年もの長さに感じられました。ばかなことをしたと思っています」
 ──いま一番つらいことは何ですか。
「東京拘置所で、1人で房に入れられていることです。非常にきつい。懲罰というので、この寒さの中、この服装(濃いネズミ色の作業服のようなもの)で、朝の7時半から夕方5時まで座っています。立ったり、新聞を読むこともできません。東京拘置所の係の人からは、『お前はばかだ。みんな逃げたために、ここの規則が変わった』などといわれています」

 7人の裁判で、「これまでの良好な拘禁規律をあざ笑うかのように、巧妙に計画し、やすやすと脱走」などと検察官は異口同音に論告した。
 これに対し、「古典的、稚拙な手口だ。なぜ、やすやすと逃走できたのか。当局の警備が驚くほど甘かったといわざるを得ない。常識的警備をしていれば、未遂で終わった」と反論する弁護人もいた。ハミッドは、「日本の法律に無知で、逃げるのが罪になるかならないのか、だれも説明してくれなかった」とも言い張った。
「元々の容疑からみると、有罪の確定と同時に本国に強制送還されるだけで済んだはずで、逃走は割にはあうまい。集団逃走は加重逃走罪にあたり、5年以下の懲役という重い犯罪だ。送還の前に、実際に刑期を務めなければならない者も出てくるだろう。『厳正な規律』に耐えられなかったのか、それとも脱走がそれほどのおおごととは思わなかったためか、7人にぜひ、尋ねてみたい」と、イラン人脱走事件を論評した新聞記事を目にした。
 しかし、強制送還ですむのは、ラゾギぐらいだった。

 イラン人脱走事件の4カ月後、96年6月27日午後8時過ぎ、東京・中野にある中野警察署の留置場から、不法残留などで裁判中の中国人の男(29歳)が、収容されていた2階にある雑居房の窓の鉄格子の錠を壊し、45センチほど開いた隙間から逃走した。
 4日後の7月1日、東京・杉並の友人宅に潜んでいるところを逮捕される。
 相次ぐ外国人脱走事件に刺激されたのか、96年12月下旬の未明、福岡市内の福岡拘置所でも、脱走未遂事件が発生した。死刑判決を受け、最高裁に上告中の男(30歳)が、独居房の鉄格子を金ノコで切断していたのである。
 鉄格子を切る物音を聞きつけた巡回中の刑務官が駆けつけて、未然に防いだ。長さ約30センチの金ノコのほかに、拘置所の略図も発見された。金ノコの入手方法は、この男の担当刑務官の1人だった。
 再び、イラン人の逃走事件が発生したのは、98年8月7日だった。同日午前0時5分ごろ、東京・調布の路上で、無灯火でヘルメットをかぶらず、2人乗りしているバイクを、巡回中の2人の警察官が見つけた。
 運転しているのは、中近東風の男性、後部には日本人女性が乗っていた。停止を求めて、職務質問を行う。
「2人乗りはだめ。免許証を見せてください」というと、腰につけていたウエストバッグから、外国人登録証と国際運転免許証を差し出した。登録証を見ると、国籍はイランだが、「在留資格なし」と書いてある。国際免許証はイラン政府発行で、有効期限が切れていた。
 そこで、不法残留と無免許運転の疑いで、調布警察署まで任意同行し、さらに詳しく調べることになった。
 パトカーで調布署についた男は、2階の会議室で所持品検査を受ける。ウエストバッグの中身をあけ、そこに入っていた黒色の小物入れのチャックをあけるとき、男が突然立ち上がり、その小物入れを奪おうとした。すぐに制止され、小物入れは男の手から机の上に落ちた。
 小物入れの中には、白色の粉末の入った小さな袋がかなり入っていた。その直後だった。
 今度、男は開いていた会議室のドアに突進し、廊下を走り、突き当たりの部屋に入り込み、その窓ガラスを割り、ベランダから飛びおりたのである。ただちに、周辺を捜索したが見失う。
 小物入れの白色粉末を調べると、覚せい剤だった。さらに、バイクのヘルメット入れにあったショルダーバックの中からも、覚せい剤、大麻、コカイン、アヘンなど多量の薬物が発見された。
 イラン人は、2週間後の8月21日午前2時過ぎ、東京・国分寺の路上で逮捕される。このときも、パンツの中に、覚せい剤、大麻、アヘンなどを多量に所持していた。また、任意提出された尿を検査したところ、覚せい剤が検出され、自分で使用していたことも判明した。
 初公判は、98年12月14日、東京・八王子の東京地裁八王子支部で開かれた。被告はわずかに白髪まじりの短髪だが、暖かそうなジャケット、濃紺のトレーナーを着ている。スマートな男だ。
 イラン人男性の通訳がいるのに、裁判長から生年月日を聞かれると、「1962年6月30日」と日本語ではっきりと答える。36歳だ。テヘランで生まれ、母親がいる。91年5月に来日し、90日間の滞在期限が切れても日本にとどまり、土木、塗装などの仕事をし、その後、覚せい剤、大麻などの薬物密売を行う。
 調布で、日本人女性と同棲していた。傍聴席の一番後ろに女性が1人座っているが、この人かもしれない。この男は、薬物事件に関しては全面的に否認し、「取り調べた警察官の口調が詰問調だったので逃げた」などと述べた。しかし、2000年7月12日、懲役10年の有罪判決を受けた。

 ところで、死刑囚が中心になって編集、発行している『希望』という季刊の交流誌がある。2000年12月に発行された第33号で、東京拘置所在監者から、次のようなたよりが寄せられている。
「(東京拘置所の)運動場の上に鉄条網がついたのは、たしか、98年の末ごろでしたね。あそこから、通路の屋根の上に登って逃げた外国人がいたからです。所内を走り回っただけで捕まっています。
 そして、その後、再びその上に鉄条網がぐるぐる巻かれたり、通路の屋根の上にも、ところどころ鉄条網の壁ができたのは、また、屋根の上に登って走った者がいたからです。99年ごろ、これは目の前でした。これも所内を走り回っただけです。
 そして、同じころ、面会連行職員がトランシーバーを持つようになりましたが、これは、イラン人3名が連行中に逃走したからです。面会連行職員1人で、イラン人3人を連れていて逃げられたのですが、所外には出ていませんが、何かその際、職員にも不手際があったようです。担当職員は皆20代から30代前半なのに、そのときの職員は、昔からやっていた人でしたが、年配で体の小さい人でした」
「その人は、その責任をとらされて、外の新庁舎の工事現場の門番のような閑職に飛ばされてしまったそうです」
 まだ、懲りない男たちもいる。

(2021年10月31日まとめ・人名は仮名)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?