見出し画像

法廷傍聴控え トカレフ警察官射殺事件3

 高橋が206号室で眠り込んでいる午前9時40分ごろ、ホテルの従業員の交代があり、勤務についた従業員が客の確認をするため、客室の車庫に駐車している車を見回っていた。ここのホテルの車庫には長く垂れ下がった“目隠し”も、扉もない。車庫の前面に雑木林があって、ホテルの外の道路からは見通せないからだ。従業員の見回りには都合がいい。車庫の前を歩くだけでチェックできる。
 206号室の車庫には、車が頭を突っ込んで止まっていて、後部のナンバーが見えた。従業員はどうも手配書で見たようなナンバーだと思った。高橋はしりあいから日産のグロリアを借りて乗っていたが、そのことが数日前に判明し、警察からホテルなどに手配車両として連絡があったのだ。

 従業員はフロントに戻って、手配書で確認すると、やはり間違いない。早速、警察に通報した。
 通報を受けて、神奈川県警捜査一課、機動捜査隊、そして県下の平塚、厚木、相模原南署から捜査員がホテルに急行した。拳銃を所持しているという情報はなかったので、拳銃は持っていかないことにした。

 ただ、高橋が刃物を持って強盗などをしているので、刃物対策で防弾チョッキを機動捜査隊の捜査員は着ることにした。ほかには、特殊警棒、防弾盾などを用意した。
 ホテルの出入り口は2カ所だ。車が2台すれ違うのがやっとで、そんなに広くない。ここを固めれば、袋のネズミである。総勢28人の捜査員を振り分けた。

 車は間違いなく高橋が借りていたものだが、宿泊客が本人だという確認はできていない。部屋から車庫に出てきたところで確認して逮捕するという方針を立てたという。午前10時半ごろには、すっかり逮捕準備は整った。あとは待つだけである。
 206号室の車庫の奥は壁で、横は部屋に入るドアのある壁だ。もう一方は隣の205号室の車庫と壁で仕切られているが、奥のほうの1・5メートルぐらいは仕切りがない。205号室との仕切り壁の奥に3人、出口のところに3人が配置された。
 ようやく客室から出てきた高橋が車の鍵穴にキーを差し込むと同時だった。
「高橋だな」
 1人の捜査員が名前を呼んだ。高橋が声のした方を見ると、私服姿の2人の男が205号室との車庫の仕切りのないあたりから向かってくる。すぐに警察官だと気づいた。高橋は反射的に車庫の出口のほうに逃げた。車庫の外へ踏み出した途端、右手の205号室の車庫の側から数人の捜査員が飛びかかろうとした。
 それを見て反対側に逃げようとしたとき、1人の捜査員が追いついて後ろから体当たりする。高橋は車庫の左脇の植え込みにぶつかってよろめいたものの、なんとか植え込みを回って逃げる。206号室と左隣の207号室の間は数メートルの空き地になっていた。高橋はそこに駆け込んだ。さっき体当たりした捜査員が先頭になって追いかけてくる。
 この空き地の奥行きは、ほんの数メートル。隣地の駐車場との境に張ってあるフェンスがすぐに目に入った。乗り越えようと思えばできない高さではなかったが、焦っていた。

 フェンスの手前を左に曲がって、ホテルの建物の裏側を走った。1メートルあるかないかの狭いところで、植木があり、雑草も生い茂っている。クーラーの冷却機が地面に設置されていたり、小さな岩があったり、改築でもした跡なのだろうか、基礎に使ったと見られる低いブロック積みも残っている。
 それほどのスピードで走り抜けられる場所ではない。追いかける捜査員も懸命だ。先頭の捜査員があと1メートルほどの距離に近づいたとき、気配を感じた高橋が振り向いた。銀色に光る拳銃の引き金を引く。この刑事は一瞬、動きを止めたようになり、その後、ゆっくり左側に倒れ込んだ。
 弁護人が尋ねる。

 ──拳銃を撃ったのは。
「拳銃を使おうと思ったのは、気がついたら左手に拳銃を持っていたから。右手に持ちかえて、振り向きざまに撃った」

 高橋の撃った弾は、捜査員の胸部に直径約0・8センチの小さな円形の穴を開け、心臓を貫いて背中に抜けた。防弾チョッキを着ていたが、弾はチョッキには当たらず、そのわずか上部に命中したのである。直ちに救急車が駆けつけたが、即死状態だった。殺されたのは、神奈川県警機動捜査隊の山中巡査(殉職後2階級特進して警部補・31歳)であった。
 山中巡査の1メートルぐらい後ろから、神奈川県警捜査一課の横田警部補(45歳)が続いて追いかけていた。「バーン」という発射音を聞いて、反射的に膝を折ってかがんだものの、足に何か異常を感じて見てみると、血が流れ出していた。山中巡査の体を貫通した弾が、左足のふくらはぎに当たったのである。横田警部補は1カ月の重傷を負った。
 当初、警察はこのとき、高橋が2発撃ち、それぞれの弾が山中巡査と横田警部補に命中したと推定していたと思われる。しかし、ほんとうは、トカレフの1発で2人を殺傷したのである。
 そこで、前述した高橋の初公判で、弁護人が反論した点が二つ出てくる。まず、弾が命中したのは、山中巡査の体のほぼ真ん中の心臓のあたりだ。防弾チョッキを着ていたとすれば、それを突き破って当たったと思われる部位だが、防弾チョッキには穴があいていない。これはおかしいというものである。
 これに対し、第2回公判で、検察官が防弾チョッキの実物を示しながら、穴があいていないことを確認させた。高橋が冷却機か岩などの少し高いⅠから撃ち、山中巡査は前かがみの姿勢で、たまたま、喉の下のあたり、防弾チョッキがU字形になっている部分のわずか上と体の間から弾が入り、心臓付近に命中したのである。
 もし、防弾チョッキの部分に当たったとしても、当時、警察の配備していた防弾チョッキは、トカレフを阻止する性能はないと考えられていた。そのため、この事件を契機に、全国の警察はトカレフにも耐えられる防弾チョッキの研究・導入をはじめたのである。
 弁護人が反論したもう1点は、山中巡査の背後にいた横田警部補を負傷させたことで、起訴状では殺人未遂となっている。しかし、高橋にしてみると、山中巡査を目がけて撃っただけで、横田警部補に対する殺意はなく、殺人未遂にはあたらないというのだ。

 さて、高橋はかねてから思い描いていた通り、拳銃を使って逮捕の危機を脱した。撃ったあと、追ってくる気配がなかったので、「当たった」とは思ったが、それ以上のことはわからなかった。とにかく、その狭い建物の裏側を通り、建物の表側に出た。ホテルの出口に向かって走って行くと、後ろのほうから、「拳銃を持っているぞ」という捜査員の声が聞こえた。
 前を見ると、捜査員が数人待ち構えている。「私服の警官はみんな拳銃を持っていると思っていたので、こちらが撃ったら、刑事も撃ってくる」と思ったが、高橋が拳銃を突き出すようにすると、ひるんだように見えたという。
 高橋はそのままホテルを出て、国道に通じる道を10メートルぐらい走って、左側にある別のホテルの敷地に逃げ込み、ホテルのブロック塀を乗り越えた。芝生の植えてある空き地を走り、細い道路に出た。捜査員が後ろから7、8人追いかけてくる。
 このころ、“最後の8発”を入れていた袋や覚せい剤などの入ったセカンドバッグがないことに気がついた。セカンドバッグは、車庫から逃げ出そうとして山中巡査に体当たりされたときに落とした。弾の入った袋も、そのときに落としたようだった。拳銃にはあと弾が2発しかない。
 高橋が道路に出て走って逃げていくと、左側に公園がある。小さな公園で、隅に鉄棒や砂場があり、近所の男の子(3歳)が母親と遊んでいた。依然として、捜査員が追いかけてくる。その男の子を人質にとろうと、高橋はとっさに考えた。

 公園に入って行って、男の子の手を取り、泣き出した男の子を引きずる。追いついた7、8人の捜査員も、それを見て手が出せない。
 高橋は拳銃を捜査員や男の子に向けた。
「近寄るな、撃つぞ」
 こういって脅かしながら、男の子の手を引っ張り、公園を出て逃げ出した。男の子の母親は、突然のことで呆然としている。
「こどもをどうするんだ。おまえにも同じぐらいのこどもがいるだろう。こどもを離せ」
 7、8メートルの距離を保ちながら追いかけている捜査員の1人が叫んだ。高橋の耳には入らない。男の子の靴が脱げたが、それにもかまわず、雑木林や畑の中の道を必死で逃げた。途中で自転車を押してくる男性(72歳)に出会ったので、その自転車を奪おうと思った。
 拳銃を向けて、「自転車をよこせ」といったのだが、その男性は耳が遠くてよく聞こえなかったという。そのうえ、拳銃に気づかなかったのか、まったく無視しているようすだ。老人はハンドルを握ったまま、何事もなかったかのように通り過ぎていった。
 自転車を奪うことをあきらめた高橋は、拳銃を捜査員や男の子に突きつけながら逃げる。公園から300メートルも逃げただろうか。道路左側に建設会社の資材置き場があった。その前の道路に青色の小型トラックが止まっている。だれも乗っていない。キーもついたままだ。

 高橋は追いかけてきた捜査員たちに拳銃を突きつけ、運転席のドアを開けると、左手で男の子を持ち上げて助手席へ放り上げた。その後、素早く運転席に座ってドアを閉め、キーを回した。
 そのとき、高橋の拳銃を持った右手は、開いていた運転席の窓から出ていた。これに気づいた捜査員の1人が、窓際に近づき、防弾盾を構えながら特殊警棒で拳銃を叩き落とそうとした。しかし、空振りで、警棒はドアにあたった。「ガチャン」という大きな音がしたので、高橋は窓の外をのぞいた。その捜査員が運転席のすぐ後ろにいて、なおも警棒を振り上げて向かってくるように見えた。
 そこで、高橋は運転席からその捜査員をめがけて拳銃を発射した。弾は防弾盾にあたってそれ、捜査員に怪我はなかった。残りは1発である。
 高橋がホテルを出てから、ほんの5、6分間の出来事であった。雑木林や畑を切り開いた新興住宅地で、映画のシーンのような追跡や発砲が展開された。

(2021年11月18日まとめ・人名は仮名)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?