有事の際の原因の特定と再発防止策にみられる後認知バイアスと手間の増加

あらゆる現場で事故や失敗などの有事が発生すると、それに対しこれを繰り返さないために、起きた事象を分析し、原因の特定と今後の対応方針が策定される。
その検討段階において、いくつかの問題点があると思うので、それについて考える。

1.原因の特定にみられる「後認知バイアス」
「後認知バイアス」とは、物事が起きたあと(つまり答えを知ったあと)で、そうなると思っていた、当然予測可能だった、と考える心理的傾向のことをいう。
ようするに、発生した事象へ結びついた行動・行為がある程度みえた状態で検討が行われ、結果として、当然防げるはず事象であったと結論づけられるようなケースである。
この「後認知バイアス」をできる限り排除し、客観的に原因を推定するための手法がいくつも提案され、活用されてはいるものの、完全にこれを排除することは難しいのではないかと考えている。それはなぜか。
容易だからである。ある行動・行為により有事が起きたことを前提とすることで、納得しやすい結論と結びつけることができ、また、それに続く再発防止策を考え立案するうえでも、これを容易にするからではないだろうか。

2.再発防止策にみられる手間の増加
原因を特定したのちにくる再発防止策では複数の対策を行うことが提示されるケースが多い。その中には、必ずといっていいほど、新たなチェックリストの活用や、ダブルチェックの実施など、手間を増やすことが含まれている。もちろんそれらの対策がすべて無駄であるというわけではなく、有効な対策も多いとは思っているが、有効性・継続性に違和感を覚える内容のものも少なからず存在している。では、なぜ有効性に乏しい対策が盛り込まれているであろうか。発生した事象へ結びついた行動・行為を直接的に防止・禁止することで再発を防止するという、短期的な視点、その場限りの視点で検討された結果ではないだろうか。前述した「後認知バイアス」の影響を受けた結果として、導かれる対策ともいえる。もうひとつは、外部を納得させるため。外部関係者(関係者だけではなくただの野次馬も含め)を納得させるには、手間を増やす(業務量を増やす)といったみえやすく、分かりやすい対策で、有事を発生させたという罪に対し、業務量増加という罰を与えるといった側面もあるのではないだろうか。

3.「後認知バイアス」を無くすには(防ぐ)には、どうすればよいのか
有事が発生した場合、対策チームなどが構成され、そのなかで一連の対応が行われることが多い。そのチームの構成員は、社内の専門部門であったり、事象によっては社外の専門家(有識者)を招集して構成される。しかし、それらの構成員はいずれもその道の専門家であり、ある意味である程度の認識を共有しているいわゆる仲間であることが多い。そのため、同じような考え方のもとで交わされる意見交換は、多様な意見が入り混じった活発な議論というよりは、特定の意見に同意し、補強するような幅の狭い、偏った議論になってしまうこととなる。これは、専門家を集めることで最善策が生み出されるといった思い込みがそうさせているともいえるが、場合によっては、ことを早期に解決・収束させたい当事者にとっては、都合のよい方向であるため、場合によっては意図的に選択されているケースもある。複雑な問題を解決しようとする場合には、「違う」考え方をする人々と協力することが必要である。多様なバックグラウンドを持った人々である。「なぜ、専門外のあの人が?」というような人であったり、同じ専門家であったとしても、今回の有事に対する情報を持っていない人など、違う見方をする人達が協力することで、1人や同質の人達で構成されたチームよりも多くの発見を得られ、個々人では見落としていたことを、お互いに補完しあうことが可能となり、精密な全体像をつかむことができ、見つけられる有益な解決策の幅が広がることになる。
4.有効な再発防止策を策定するには
前述したとおり、新たなチェックリストの活用や、ダブルチェックの実施などの対策が、すべて無駄というわけではない。多様な意見交換により導かれた原因に対し、長期的視点に立った継続可能な対策であるのであれば、それは運用価値のある対策といえる。注意しなければならないのは、発生した事象は時間の経過とともに忘れられ、追加実施されることとなった対策も形骸化していき、何のためにこの作業を行っているか忘れられていく。再発防止のための対策として実施していた作業それ自体を行うことが目的となってしまう。そうならないためには、追加対策自体を作業プロセスへ取り込み、意識することなくその追加作業が行える体制を整えるとともに、全体プロセスの継続的な見直しの中で最適最善な方法へ進化させていく必要がある。
5.違和感
事故や失敗などの有事は、だれも望んでいなくても突然起こる。有事は、完全になくすことはできないことを前提として考えなければならない。事故は起きます。突然に。機関車トーマス「じこはおこるさ」でも歌われている通り。しかし、事故など有事を待っているだけでは成長はありません。どうすれば、有事を防げるか、減らせるかを平素から考え、行動する必要があると思います。そこで、『違和感』をキーワードとして、次の提案をしたいと思います。
ひとつは、『違和感を感じること』です。平素から、人の意見、行動、周りにみえるものなど、自分が見聞きするものを当たり前と思わず、いったん立ち止まり、「それって本当かな?」とか「なんでそうなってたんだっけ?」などと、疑ってみることが大切だと思っています。しかし、なんの根拠もなく疑うことは、ただのいちゃもんになってしまいます。違和感を感じるためには、”知識”と”経験”が必要となります。”経験”?、ということは、年齢を重ねなければ違和感を感じることはできないのでしょうか。確かに年齢を重ねれば経験値は増えていくかもしれません。しかし、年齢を重ねていても、たとえ重ねていなくても、大切なのは自分の経験したことを経験値として積み上げていくことができるかどうかに掛かっていると思います。経験値として積み上げていくためには、自分が見聞きするものをただ見ているだけではなく、観察することが重要です。見ているだけではなく、観察し自分の頭で考えることをして、初めて経験値として積み上げていくことができるのです。
もう一つは、『違和感に対し反応すること』です。いくら違和感を感じたとしてもそれを指摘し、共有することをしなければ、改善に結びつけることはできません。なぜ、その違和感を表明することができないのか。そうしなかったのは、自分の感じた違和感に確信が持てなかったから。他の人たちの共感を得られるか不安であったから。そのため、解明すべき問題が漠然とした疑問で終わってしまったのだ。
内田義彦著作「読書と社会科学」から次の1節を紹介します。
「事物について確かめることを回避し避けるこの普遍的疑惑の精神は人にも及んで、疑わしきを確かめず、確かめざる疑惑を万人に及ぼす習性になります。人とは所詮かくの如きものであり、そういうものとして適当に接すべきものという。こうした、万人に対する平等にして普遍的な疑惑精神の所有者からすれば、何かあることに「異常な」関心を誇り、ある事実を執拗に確かめようとする人(要するに、すじを通して事実を探求しようとする人)は理解を越えた異邦人で「異常なもの」を感じる。ましてそうした異邦人が、わが世界に踏み込んでくると、恐怖を覚える。何もせずに万事を疑っている暇があったら、一事でいい、何かを踏み込んでやること、鋭敏な感覚を保持し、念のため事を確かめる労力と軋轢を厭わぬ気風を養ってください。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?