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いまなぜ民藝か?ーどうして、こうもぼろ町家に惹かれるのかー

※2017年12月2日に開催された京都建築専門学校シンポジウム「いまなぜ民藝か?ーどうして、こうもぼろ町家に惹かれるのかー」ゲスト鞍田崇さんの講演で感じたことのまとめです。また、鞍田崇さん著書の「民藝のインティマシー「いとおしさ」をデザインする」の感想でもあります。

民藝とは何か

 民藝とは、民衆的工藝の略だそうで、正直自分は「民藝」ってよく理解していなくて、籠とか器とか木柄の太い建築みたいなイメージしか持っていなかった。自分の設計のデザインが民藝風だねと言われることもあり、いわゆる籠とか古道具とか民藝品は好きなので嬉しい反面、建築的にはゴテっとした空間のイメージがあったのでなんかなぁと思うこともあった。
 たぶん、民藝って世の中で結構誤解されてる言葉なのだと思う。

 どうも民藝運動ってのは民藝的なものが真に美しいかどうかとか、モノ自体が良いとか悪いとかという話なのではなくて、平凡な茶碗からそれを作った人や使っていた人の生活や暮らし、営みの世界が想像できて素晴らしいと思える「感性」が素晴らしいのであり、
「世間が素晴らしいというものを鵜呑みにして賞賛するのではなく、自分の目と頭とで判断しろ、直感に素直になれ、価値観はもっと自由でいいんだ」という人間への解放運動のようなのだ。
 そう理解できたら、煮詰まった現代の社会の解決の糸口のように思えて、ぐっと民藝のことが自分事になって、どんどん気になってきた。

今なぜ民藝か

 現代の建築現場では、既製品や工場生産品だけで完結できてしまったり、労働時間よりも工期優先、住宅の製品化が進んで素人が手を入れられず、大手がやってるから、エコだから、最近話題になっているからと、テレビや雑誌やネットの特集に踊らされて、住まい手も作り手も消費者になってしまって、何が本当に良いのか自分自身で責任を持って判断しない。クレーム・リスク回避、メンテナンスフリー、使い捨て住宅、、、ものづくりの現場に余裕が無く疲弊した状態では、良いものはできない。建物に住む側、買う側にとっても決してハッピーではなくなっている。

 日本(特に京都の町)は小商いや職住一体の暮らしが多くて国民総生産者みたいなところがあったと思う。もし、自分も物を作っている人だったら、そんなに焦って物を作ってもいいものなんてできないと分かるけれど今は1消費者になってしまって、生産者との距離が遠くなって消費者が生産者の気持ちに寄り添えなくなっているんじゃないかなぁ。
 作っている方も、相手の顔が見えないと、誰のために仕事してるかわからないし、この人の為ならがんばっちゃおうという気になれない。だから、大企業より小商いが溢れる世の中の方が健全になるのかもしれない。

 最近「直して使う」「無いものは作る」という発想をしなくなったなぁと思う。以前、古いドアノブの部品のネジが無かったので、まず品揃えが多くて有名な金物屋さんに行ったら、カタログにもないしもう取り扱ってないと言われて終わってしまった。
 2軒目に入った金物屋のおじいちゃんは、ごそごそと倉庫から一本のネジを探してきて、「このネジを切って、作ってみれば?」とニヤリ。
 忘れてた、そういう心でやらなあかんかったと思った。

 工夫したり手間をかける事は時間や余裕がないと出来ないものだ。現代社会では休んだり無駄な時間を過ごすことが一番の贅沢で、ひょっとするとこの世で今一番高価なものは時間なのかもしれない。でも、自分次第で時間は作れるものだ。時間の使い方を変えることから、生き方を変えていきたいと思う。

なぜこうもぼろ町家に惹かれるのか

 ぼろ町家が民藝に通づるところを挙げると多すぎてきりが無いが、古び使い込まれた町家は、作った職人さんの心や住み継いだ住人の暮らしが時代を超えてリアルに伝わる、いとおしいタイムカプセルだということ。それが今この目の前に残っていて、この手で触れられることが素晴らしい。この感性が「民藝」なんだと思う。

 ぼろ町家をなおしている現場には、今の建築現場が失いかけているものがある。原始的な自然素材の自由さや、手間をかけなければできないことや、住まい手と職人さんとの近さとか、不完全さやおおらかさがあって、とても人間らしい純粋な建築の喜びがある。それが庶民の住宅レベルで行われていることが、現代の建築業界に残された救いで、希望なんじゃないかと思っている。

「ふつう」なんて無いほうがいい

「ふつう」とか「世間一般では」という言葉に押し潰されそうになる事がある。「ふつうはこう」「常識はこう」という言葉を振りかざすのはとても危ない。
 価値観や生まれ育った環境や文化は人によって違うのだから。「ふつう」なんてない世の中の方が健全だ。自分の価値観で世の中を染め尽くしたいわけじゃない。一つの価値観が主流になった世の中なんておそろしい。自分が良いと思うものを選択肢として選べるように次世代に繋ぎたいだけだ。
 世の中の主流がサッシでも、木製建具を選択肢として選べる世の中であってほしい。世の中の主流がボードにクロスでも、竹を編んで土を塗る家を作ってもいい。世の中の主流が高スペック住宅でも、自分は外の天気や気温や四季を感じるぼろ町家に住みたいんだと言っていい。
 誰かのふつうや作られた主流に呑み込まれ、自分が素直に心惹かれる生き方を全く選ぶことが出来無くなってしまったら、さみしくて、不自由な世の中である。

「いとおしい」ということ

 鞍田さんによると民藝とは「いとおしさ」なのだという。
夫は目の前の1.8歳の息子が「いとおしさ」そのものだ。と言う。
一生懸命ご飯を食べているんだけど、8割方床に落としている。
打算や雑念なく生きることに一生懸命な目の前の1.8歳を見ていると
自分のごちゃごちゃした悩みが馬鹿馬鹿しくなってどうでも良くなってしまうと。
鞍田さんの言葉を借りて、「ノイズ(雑念)が無いからなんかな」と言うと
「でもコードっていう感じでも無いんだよね。作られた計算された綺麗な流れじゃなくて、風の音とか水の流れみたいな感じで、ゆれてぶつかりながら進んでる感じ」
「ノイズが自然で、コード(世の主流)は作られたものなんやね。
この時期の子どもは自然そのものって感じで、見てるとなんか救われるわ〜」
「前から思ってたけどこの人(息子)見てるとお地蔵さんに似てるよな〜ありがたや〜」
「ほんま、そうやなぁ、お地蔵さんって、2歳児ぐらいの姿なんかなぁ。地蔵の語源って、サンスクリット語で「大地」と「胎内・子宮」が合わさって“地に蔵する”っていう意味らしいで」
「深いな〜」

全ては土(自然)から産まれてくる。大事なことは全て繋がっている。
私達はそろそろ人間らしい生き方を取り戻す転換期にきているのだと
あらためて意識と決意ができたここ数日の気づきでした。

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