Convento di San Marco
リッカルディ宮殿を出て左、大聖堂を背にして北へ5分ほど歩くと、緑の植え込みのあるサン・マルコ広場に行きあたります。
広場の周囲を見廻して下さい。サン・マルコ聖堂があり、その右側に隣接しているのがサン・マルコ修道院です。
13世紀、ここにはシルヴェストリーニ信徒会の礼拝堂が建てられていましたが、1427年にはローマ教皇エウゲニウス4世の命でドメニコ会士たちが移り住んできました。
そして、1437年にメディチ家のコジモは建築家の
メディチ・リッカルディ宮殿
Palazzo Medici Riccardi
ラルガ通り(現在のカヴール通り)とゴーリ通りの角に建っている邸宅が、メディチ家のリッカルディ宮殿です。
あれだけの権勢を誇ったメディチ家にしては地味な印象の邸宅ですが、そこには、アルビッツィ家の陰謀(1433年)を経て、他人から反感や嫉みを買うことがいかに危険なことであるかを思いしらされたコジモらしい配慮がありました。
最初、コジモは邸宅の設計をブルネッレスキに依頼しましたが、彼が作った模型があまりにも豪華だったため、お抱
サン・ロレンツォ聖堂
Basilica di San Lorenzo
ドゥオーモ(大聖堂)広場から北へ伸びるマルテッリ通り(Via dei Martelli)を200メートルほど歩くと、左手に石積みのルネサンス様式の宮殿(メディチ・リッカルディ宮殿)があります。
そして、その角をすぐに左に曲がり、少し歩くと、レンガを積んだだけの未完成の教会ファサードが見えるはずです。それがメディチ家の菩提寺、サン・口レンツォ聖堂です。
この教会の由来は、聖アンブロジウスによって祝聖された393年に遡ります。
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
Cattedrale di Santa Maria del Fiore
フィレンツェが都市として一大発展を遂げると、かつてのサンタ・レパラータ聖堂のあったところに、都市の全住人を収容可能な巨大な大聖堂建設の必要性が生まれ、1296年にアルノルフォ・ディ・カンビオが現在の大聖堂の基本的な姿を設計しました。
工事は1302年の彼の死によって一時中断したものの、1334年にはジョットを総監督として建設が続行されました。この時、ジョットは大聖堂の南側に隣接するように高さ81.75
サン・ジョヴァンニ洗礼堂
Battistero di San Giovanni
フィレンツェの歴史をひもとく時、そこにはいつもサン・ジョヴァンニ(洗礼者ヨハネ)の聖堂があります。
フィレンツェを追放されたダンテは、流浪の日々にあっても、「わが麗しきサン・ジョヴァンニ」を心に描きつつ、「洗礼の日、深い聖盤の中にはまって溺れかけた子供を、私自身がそれを壊して救った」( 『神曲』地獄篇、第19歌)と語っています。
La Divina Commedia illumina Firenze, Domenic
メディチ家礼拝堂
Cappelle medicee
メディチ家礼拝堂は、位置としてはサン・ロレンツォ聖堂の主祭壇の後ろ側にあたりますが、博物館として独立した入口をもっているため、教会堂内からではなく、いったん外へ出て、チケットを買って入り直す必要があります。
Cappelle medicee, Basilica di San Lorenzo, Firenze
メディチ家の菩提寺であるサン・ロレンツォ聖堂の堂内には、あちこちにメディチ家の墓が設けられていますが、大切な礼拝堂は「新聖具室(S
Palazzo Medici Riccardi
1444年、コジモ・デ・メディチは、ラルガ通り(現在のカヴール通り)とゴーリ通りの角に新しいメディチ宮殿を建設することにしました。
あれだけの権勢を誇ったメディチ家にしては地味な印象の邸宅ですが、そこには、共和制を建前としたフィレンツェで、アルビッツィ家の陰謀(1433年)を経て、他人から反感や嫉みを買うことがいかに危険なことであるかを思いしらされたコジモらしい配慮がありました。
最初、コジモは新居の設計をブルネッレスキに
サン・マルコ修道院
Convento di San Marco
サン・マルコ広場に面した教会の右隣にある入口には、「サン・マルコ博物館(Museo di San Marco)」と書いてあります。この博物館は、もともとは修道院で、現在はその一部を博物館として公開し、修道院に所縁の深い美術品を展示しています。
修道院の建設は12世紀に遡り、元来シルヴェストリーニ信徒会のために建設されましたが、ここがフィレンツェの歴史舞台に登場してくるのは、1437年にドメニコ会の修道院となってからです。
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《天国の扉》ロレンツォ・ギベルティ
《Porta del Paradiso》Lorenzo Ghiberti
1424年に北側扉が完成すると、ギベルティは引き続き残るもう一枚の扉制作を同じ毛織物業者組合(Arte di Calimala)から委嘱されました。ギベルティは、息子のトンマーゾやヴィットーリオの手を借りながら、その制作に25年以上をかけ、1452年に完成させました。
すべてにわたってアンドレア・ピサーノの先行作品に従わねばならなかった前作の時とは違い、形式も構成もギベルティの自由に任されていたこと
サン・ロレンツォ聖堂
Basilica di San Lorenzo
サン・ロレンツォ聖堂は、聖ラウレンティウス(イタリア語名はロレンツォ Lorenzo)に捧げられた、フィレンツェで最も古い教会のひとつです。
393年にミラノ司教聖アンブロシウス(イタリア語名はアンブロージョ Ambrogio)によって献堂され、その後、フィレンツェ司教聖ザノービの遺骸がサンタ・レパラータ教会に移管されるまでの300年間にわたって、フィレンツェ最初のドゥオーモ(duomo 司教座教会)として利用されました。
オルサンミケーレ教会
Chiesa di Orsanmichele
宗教権力の拠点であるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂とサン・ジョヴァンニ洗礼堂、そして政治権力の拠点であるヴェッキオ宮殿の広場のちょうど真ん中に位置する、一風変わった外観をもつ建物がオルサンミケーレ教会です。
この箱型の建物は、教会堂のようには見えず、ピエトラ・フォルテ(petra forte, 黄褐色砂岩)で建てられた頑丈な要塞のように見えます。
この教会の名前は、750年に建設されたサン・ミケーレ礼拝堂(Orato
オンニッサンティ教会
Chiesa di Ognissanti
オンニッサンティ教会は、13世紀にロンバルディア地方からやってきた、ウミリアーティ会の修道士によって創設された教会ですが、16世紀には修道会が解散したため、メディチ家やヴェスプッチ家の保護を受けていたフランチェスコ会士たちに譲り渡されました。
1627年には堂内が全面的に改築され、1637年にはファサードが手直しされました。彩色陶板のルネッタが特徴的です。
後陣に接して建設されている鐘楼は13世紀の姿をとどめています。堂内は、1