比較なき幸せは存在するのか?〜相対的な幸福論〜

初めてとなる今回は、私が常々興味の対象である「相対と幸福の関係」について書いてみようと思う。

人生における目標やゴールは幸せや幸福である場合が多いと思う。
「最も幸福度の高い国」など何を指標にしているのか訳のわからないランキングだが毎年のように耳にするのは関心を寄せる人が多いのだろう。
やや不躾だが、気にしているいないに関わらず、多くの方は幸福を目指して生きているのではないか?少なくとも不幸を望む人は異端とされそう。

もちろんこの考えに他意はない。僕だって幸せになりたいと願うし、願っていなくとも不幸方向に舵を切ることはない。意図としては。

そして幸福論を語る時、「比較」をベースにすることをなんだかネガティブに言う事が多いように感じる。

「他人と比較する事なく今ある幸せを感じるのだ。幸せはなるものでなく感じるものだよ。」
と、もっともらしい言葉は何度も聞いた事がある。隣の芝は青く見えるからなんてね。

しかし、しかしね、
人は何かと比較する事なく幸福を感じることは本当に可能なのだろうか?

比較、つまり比べること。相対するものと比べることだ。ここで「相対」について辞書をひいてみる。

そうたい
【相対】
それ単独にでなく、他と関係づけて捉えること

と、ある。
が、
そもそも人は他と関係づけないで何かを捉えることってできるんだろうか?

「私」という存在は「私以外」ではない事を意味していて、「これ」は「これ以外」ではない事が前提になる。はず。

比べるものがなければ存在すら確立する事が難しい。
実在の話になっちゃうとそれはそれで長くなりそうなのでここらへんでやめておこう。

私は喫茶店を営んでるので例によって飲食をテーマに考えてみる。
美味しいものを食べた時に感じる幸せは、過去の多くの食体験に基づき、美味しいがつくられている。
たとえば珈琲を飲んで「美味しくて幸せ」に感じた体験をしたとする。
それが生まれて初めて珈琲を飲んだ場合は、「こんな美味しい飲み物を初めて飲んだ!」と比較対象が珈琲以外の飲み物になるだろう。
何度も珈琲を飲んだ事のある場合は、もちろんそれまでの過去に飲んだ珈琲と比べる事になると思う。
もちろん「味」だけでない他の付加価値が「美味しい」を生み出す事もあるが、それも過去の体験との比較はあるだろう。

呼子のイカを食べるとこれからイカとの付き合いを考えるよ。なんて言葉も聞いた事がある。
なんだっていいが、呼子のイカは迷わず食べたい。

人が何かを計る時、感じた体験も含めて、そこに感情をのせる時、そうでなかった過去の多くの体験が存在する。
それに相対して今の体験の価値を計るという図式がある気がする。

つい食に話が偏ってしまった。
それ以外でも幸福や幸せを感じる場面は多々存在するが、例に漏れずこの図式が成り立つ気がしてならない。

では、
体験自体がまだ少ない赤ちゃんや子供はどうか?
ただただ何もしていない時に感じる幸せは?
などなど…
今後、少しずつ思い付いた幸福体験を相対と共に検証したい。

興味ある方はお付き合い頂けたら幸いです。
あくまでも僕の個人的体験と興味を基に書いているが、反論異論はどしどし募集したい。コメントでも是非。

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