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佐々木朗希の故郷を訪ねて、

震災関連の記事となりますので、ご理解の上で読んでいただければと思います。


3/7陸前高田を訪ねた。
一面見渡す限り整備された広野の中、真新しいスーパーに現代風な光をよく通す建物、都内でもよく見れる所謂オシャレなお店や建物が規則正しく並んでいた。

ニュースでは復興は進んでいる、頑張ろうといった言葉が並び、関東圏に住んでいる自分はあたかも過去から抜け出して新しい未来に向かって街は走り出しているものだと思っていた。でも、それは復興してみんなが3.11を乗り越えていて欲しいとの願望だったのかもしれない。 

だって、そこには時間がなかった。言い換えれば今しかなかった。

例えば桜が咲いて咲き、花が散って新緑になり、紅葉する。例えば家が立ち、店が出来て、子供が増えて、空き家になり、店が潰れて、人が減っていく。
時間というのは、意識すれば目にわかる程度の変化を繰り返し、それを認識する事で人の共通認識としてそこにある。
でもその街には、感じる過去がなかった。
過去の思いと今の間にすっぽりと穴が空いていた。そこには流れる時間がないから思いが風化しない。
どんなに時間を積み重ねて、思いでを他の場所で作っても、その場所に着いた途端時間は真空だった事を知る。進めない。どうしたら良いんだろうか。

時間は地続きだ。過去があるから今が未来がある。そう思って生きてきた。
でも、それではいつまで経っても過去の亡霊から未来の幻想から抜け出せないのでは無いか。
本当の意味で、今を生きる必要があるのではないか。
例えるならば、動画ではなく写真として、一枚一枚を必死に認識する。過去を乗り越えるには一瞬の今が必要なのでないかと感じた。

被災の過去を現在を、思い描く未来を忘れないこと。それは大切だと思う。
だからといって時間に縛られてはいけないのだ。
今しかないのだから。



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