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巣鴨学園、地脇猛夫先生一周忌

地脇先生一周忌

今日は地脇先生の一周忌でした。
あれからもう1年経つの?と思うと月日の流れの早さに驚きを隠せません。

私は今日は京都にいるため、お寺には行けませんでしたが、小野寺先生がお墓参りに行き写真を送ってきてくれました。
OBならもちろん分かる、リポビタンDとぬるいビール。我々の時はホットミルク紅茶(紅茶花伝だったかな)を、良く買いに行きました。

個人的にはやはり京都インターハイの思い出は強く、先生の一周忌に京都にいるのはなんだか感慨深い思いです。これは本当にたまたまですが。

それと、卒業生や関係の深い方々に追悼の寄稿文を集めるそうで当時を思い返しながらその文章の土台になるような内容を書ければと思います。

1997年の京都インターハイ、この1997−1998年度からついに地脇先生が正式に小野寺先生にバトンタッチをしました。
つまり、私が3年生の時は小野寺先生が正式にベンチに入る初年度になりました。

ここで、地脇先生との思い出を順を追って振り返ってみたいと思います。
地脇先生との出会いは中学校の関東大会、会場は忘れてしまいましたが、群馬だったでしょうか。
私は個人戦では都大会に出ることすら叶いませんでしたが、団体戦ではオーダーも功を奏し、全勝する事が出来、3位で関東大会に出場することが出来ました。

この中学での結果は顧問の先生はもちろんですが、亡くなられた野口英一先生の存在無くしてはこの結果は無かったと強く感じています。
個人的には野口先生から地脇先生に繋いでいただいたと思っています。

その関東大会で初戦負けではありましたが巣鴨に来なさい、と声をかけてくださり巣鴨への進学を決意することになります。
母親には自分の息子がテニスで進学するなどとは夢にも思っていなかったらしく、大反対を受けたのもいい思い出です。
本人としては小学校、中学校の先輩たち、賛さん(野口先生息子)や大野さん、瀬戸さんと進学していたので、なんかもうそう云うもんだろうと微塵の迷いもありませんでした。
これは後日談になりますが、小野寺先生には、なんでこんな下手くそなやつ巣鴨入ったんだ?勝てなくて苦労するだろうな、と思われていたそうです。はは。かなしみ。

ここで地脇先生のエピソードなど述べていきたいと思います。

エピソード1「大将の予言」

小野寺先生にそのように思われていたのと対象的に、地脇先生は全く別の視点で私を見てくれていたようです。
1年生の保護者会で、地脇先生が突然、3年生になったら中村くんが大将になるよ!と言ったそうなんです。
同じ中学の大将も来ていましたし、都大会でも上位の学校からまた、都外からも上手い選手が来ていたので、いきなりそんな事を言われて、保護者会に参加していた母親は寝耳に水、そして何より恥ずかしくて仕方が無かったそうです。

当時1年生の私の戦績は、年間を通じた全大会でベスト32、それ以上にもそれ以下にも行かない成績でした。今の東京を見ると、1年生で32なら良いのかも知れませんが・・・
後一つ勝てない、と苦しんでいた時期でもありました。16に入ると関東に、そしてベスト8でインターハイなので、16の壁は一つの目標になっていました。

ちなみに地脇先生の予言通り3年生では大将になるわけですが、どうしてあの時、そのような発言をされたのか。あの世に行ったらお酒でも飲みながら是非聞いてみたいと思っています。

エピソード2「ペアの選択」

地脇先生は、ご自身でペアを決められるので、生徒の意見を聞くというのは少ないケースではあったと思うのですが、当時一つ上の先輩と、1年生の柴田、どちらと組みたい?と聞かれ先輩には失礼ながら、柴田でお願いしますと即答した記憶があります。

そして2年になる直前、瀬戸さんからグリップを変えるようアドバイスをもらい、思い切って変えてみました。あそこもターニングポイントでした。
また、その時点で当時遊んでいた地元の友達と全て音信不通にしてテニスに打ち込む覚悟を決めました。
何かを決めたら全て捨てて打ち込むのはこの頃と、今の仕事っぷりからも本質はあまり変わっていないなあと自分の事を面白く感じています。

そして、2年になり関東大会に出場、インターハイも出場することが出来ました。そして山梨インターハイでは二日目に残ることが出来、JOCへの切符を掴むこととなります。

エピソード3「ペア変更」

そして2年で出場したJOCで優勝を果たす訳ですが、この時、ペア変更で柴田が外され、当時大将前衛だった桂田と組んで広島に送り込まれました。
当時は良く分からないままに行ってきましたが、地脇先生は勝つために非常にドライでシビアな判断をされる方というのが垣間見えるエピソードかと思います。
ちなみに、余談ですけど早稲田の後輩たちはインターハイチャンプがゴロゴロと入ってくるようになって久しいですが、一応早稲田卒のJOCチャンプ第一号となれたのラッキーでした。

エピソード4「身長とともに崩れる」

上記のJOCを優勝し、その後都大会で、当時の大将である瀬戸・桂田を倒し、代が代わり桂田と組む事になり、これから東京、全国で戦っていくんだ、と思っていた矢先に、東京ベスト64で負けることとなります。
2−3年になる間に身長が10cm伸びました。地脇先生からは10cmも打点がずれることにより、中村は必ず崩れる、というように言われ本当になっていきました。
今で言うイップスのような状態にもなり、選抜の予選は何とか東京の決勝までは行きましたが、勝てるべくもなく。大将が負ける訳ですからチームは当然勝てませんでした。
そこからも苦しい時期が続きましたが、確か朝日カップ、全国私学と上位まで勝つことは出来ませんでしたが、復調というか、改善の目処が出来てきたのを何となく覚えています。
そして3年の春を迎えました。

エピソード5「インターハイベスト8の予言」

前述の通り、この年からベンチには小野寺先生が座ることとなります。関東予選は2位でハイジャパを逃しましたが、インハイ予選は優勝、関東は個人2位、団体3位と言う状態でインターハイを迎えることになります。
ちなみに、私は巣鴨史上ただ一人の関東大会個人戦2位、となってしまいました。きっと地脇先生の脳内の戦績データベースにもしっかり刻まれたものと思います。
後日のネタとしては面白くて良かったですが、悔しかったですね。

そしてインターハイです。
三段池のテニスコートは離れた丘の上に東屋があり、地脇先生はそこから我々の試合を観戦していました。
余談ですが、当時祖母もわざわざ夜行バスで応援に来てくれました。ただ、祖母は試合が怖くて観られないって事で後ろを向いてずっと拝んでいて、地脇先生におばあちゃん、せっかく来たんだから試合観たらどうですか?と言われていたらしいです。はは

そして、その地脇先生、コートの立地をご存知の方はあの距離から試合は、まあ観られはするもののなかなか詳細の把握は難しかったのでは、と思いますが、パッと見て、中村たちはベスト8までは行くよ!と予言されたのでした。自分自身は1戦1戦必死でしたので、先の事はほとんど考えていませんでした。
地脇先生は恐らく、本人達の状態、ドローなどを見てそこまでは行ける、と踏んだのだと思いますが、これも本当に飲んで聞いてみたいです。
どのような根拠でそのように仰ったのですか?と。地脇先生は非常に論理的かつ合理的な方だったので、何かロジックがあったのではとも思います。本当に興味深いところです。

そしてインターハイの結果としてはベスト8、優勝した三重の花田・岩瀬にファイナル負けでした。ファイナルは1−7とかでしたけど。
これは小野寺先生とのエピソードですが、ファイナルになった時のベンチコーチで、相手のベンチは神崎先生、鉄の状態なんてバレているし、必ず岩瀬も動いてくる。
先生に
「鉄、抜けるか?抜ければ勝機があるんだが」
「抜けません!」
「じゃーもういい行って来い!」
というやりとりをしたのは良い思い出です。ただ、自分には何が出来て何が出来ないのか、出来ない事をきっちり捨ててプレーをしていた、不器用な自分なりに頑張っていたんだろうなと思うエピソードでした。

エピソード6「大学ではもう勝てない」

そして、大学に入り、今思えば完全にイップスなんですが、本当に勝てず苦しみ抜きました。
そんな時、大学2年生の春リーグの白子で地脇先生に再会することになります。その際に、私を一瞥して一言
「中村は大学ではもう勝てないよ!」
と予言され、見事に勝てない4年間を過ごしました。恐らく、オフに染めた頭が少し茶色かったり、身体の筋力の付き方その他、なにより意識や姿勢など総合的に判断されたのだと思います。
もうそこには下手くそでも大将を嘱望されるような選手は居なく無ってしまっていたんですね。これも辛いですが、最後に印象に残っているエピソードです。

最近殊更良く思います。本当に生前に色々と話を聞いておくべきでした。まさか大学卒業後、ラケットを置いた自分が16年の時を経て指導者になるとは夢にも思っていませんでした。
今なら、あの時の指導の意図はなんだったのか、また自分が指導する上で悩む部分などを色々と相談したかったです。

関東圏の高校男子で、インターハイの個人・団体をともに複数回優勝させているのは地脇先生が率いた巣鴨だけです。
ソフトテニス界における稀有なる知将でした。
合掌

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