スクリーンショット_2019-01-20_8

課題解決とスポーツがコアである理由(2)

前回は、私のコアを構成する要素(Being)の「課題解決」に関して記しました。今回はもう一つの要素がなぜ「スポーツ」なのかをお伝えできればと思います。

・私のコアを構成する要素は、「課題解決」と「スポーツ」
・「課題解決」の理由は、幼少期に置かれていた環境が起因
・「スポーツ」の理由は、アメフト選手時代のとある家族との出会いが起因(←今回はココ)

■「スポーツ」の理由
幼少期から26歳まで、部活・体育会さらには社会人スポーツでも選手を続けてきた私ですが、スポーツの本質的な価値に気づいたのは25歳になってからでした。(少し長いので、ご興味ある方だけどうぞ・・・)

<虎ノ門のカレー屋での偶然の出会い>
当時、リクルートで働くかたわら社会人のアメリカンフットボールチームで選手としてプレイしていました。ある日、アポイントの合間にたまたま入店した虎ノ門のカレー屋で、会社の先輩とランチを食べながらアメフトの話をしていました。食事を終え会計をしにレジへ向かうと、ウェイターの40代の女性から「あなた、アメリカンフットボールをやられているんですか?よかったら名刺をいただけませんか?」と声をかけられました。あまりに突然の出来事に戸惑いながらも、彼女の穏やかな雰囲気の中にある必死な目線に何かを感じ、名刺を手渡しその場を離れました。

<会社のデスクに届いた1通の手紙>
2,3ヶ月経ったある日、夜会社に戻るとデスクに宛先に見覚えのない手紙が届いていました。不思議に思いながら封筒を開くと、カレー屋で出会ったその女性からでした。読み進めると、彼女の夫が元アメフト選手であったこと、その方が私と出会う少し前に亡くなられたこと、そして小学生の息子さんが父親の死を境に心を閉ざしてしまっていることが、綴られていました。そして、手紙の最後には「林さんの試合に息子と二人を招待をしてもらえないでしょうか?」と書かれていました。息子さんを勇気づけたいという思いからだったのでしょう。

しかし、私は招待するべきかとても悩みました。断ろうとも思いました。なぜなら、私はそのチームで控えの二流の選手だったからです。レギュラーではない私が、その親子に何も与えることなどできないと思ったからです。しかし当時の監督に相談したところ、「それはぜひ招待しよう」という話になり、親子を東京ドームで開催される試合に招待することになりました。

<不思議な力が働いた試合>
試合当日、ドームには沢山の観客がいたため試合中はその親子がどこにいるかはわかりませんでした。でも、少しでも自分のプレイを見て元気を届けることができればと思い、無我夢中でプレイしました。不思議なもので、その試合でフルバック・キッキングチームとして出場した私は、いつも以上に良いプレイをする事が出来ました。何か見えない力が背中を押してくれたような感覚でした。

試合後、その親子とフェンス越しに相対したシーンは深く脳裏に焼きついています。「林さん!林さん!」遠くのネットにしがみついて私の名前を呼んでくれた先に向かうと、その親子がいました。「林さん、今日はご招待いただきありがとうございました!」と少し興奮しながらお礼を伝えていただく女性の傍らには、恥ずかしそうにはにかみながら私を見つめる息子さんがいました。「今日は来てくれてありがとう!」私の言葉にシャイな少年から返事はありませんでしたが、ネット越しに合わせた手を力強く握り返してくれました。無言の会話。その瞬間、父親の死という悲しみをのり超え、次に進むための勇気をギフトできたと感じました。私が無名の選手であることなど関係なく。

<少年からのギフト>
さらに数ヶ月後、当時小学校6年生だった少年から手紙をいただきました。「父親が亡くなってから生きる意味を失っていましたが、林さんのひたむきなプレイを見て勇気をもらいました。もう一度スポーツを頑張ってみようと思い直し、中学校に入ってからバスケ部へ入部しました。頑張っています!」

何か身体中を電流が巡るような感覚が襲ってきました。勝利や成長、家族や仲間との出会い・繋がりに喜びを覚えて20年以上続けてきたスポーツ。それらを超越して、自分自身が一度きりの人生の中でスポーツに出会い、小さい頃から選手を続けてきた意味・答えをこの少年が私にギフトしてくれました。

私が選手を引退したのはその翌年。この先の人生は選手としてではなく、スポーツが持つ本質的な価値を社会に対して伝えていくこと、還元していくことを自分のライフワークとして、一生かけて向き合っていこうと心に決めたのです。

これが、私を構成するもう一つの要素が「スポーツ」である理由です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?