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「推し」とか嫌い

「推し」という言葉が嫌い。
そこにあるのは、断絶。
誰かのファンなのも、人間関係なんだから、相手への配慮が必要である。
けれど、「推し」と言ったとたんに、「好きだからいいでしょ」と免罪符を得たかのように、「推す側」「推される側」の間にバリアを張り、自己主張をする。相手がどうこうというより、自分勝手なのである。

安全な「推す側」エリアに立ち、でかい態度で、ポジショントークをする。
権利を得たかのように、他者をスポイルする。「褒め」だってそう。
相手がどう思うかな、イヤかもしれない…、といった遠慮がなくなる。
相手をモノ扱いする。記号化する。一方的である。堂々と消費する。
傍若無人。不遜。傲慢さも許されると思っている。
「推し活」なんて、自分かわいがりの視点しかない。
失礼なんだよ。
ああ、わかった。
「推し」と言って、他者を尊重するように見せながら、実は、自分が主人公になるための、ダシにしていること。その人を「推す」自分がいいでしょ、という、ひねくれた承認欲求、自己満足が、嫌なんだ。
「推し」と言えば、流行りだし、自分の道具にしていい。他者への心遣いは置いといて。そんな考えがまかり通ると勘違いしているのが、嫌なんだな。
普通に、「好き」とか、「ファン」とか、いえばいい。

「尊い」も嫌い。
本来の意味ではなく、「推し」が「尊い」とかいう文脈で使うやつ。
なんでもかんでも、安易に「尊い」という。
それさえ言えば、どんな状況か推し量れよ、という、不遜な感じ。

「新月に祈ろう」とか言う、男の経営者もいたな。あれも嫌い。
月の満ち欠けが、全てを司っていると信じている自分を、かっこいいと思ってるんだろうな。みんなで祈らされたこと、あったな。きもかったな。

「イエベ」「ブルベ」も嫌い。

あーっ、「パーソナルカラー」とか言うのも嫌い。
20年くらい前から、いまだにあるな。女の人に多いけど、「私のパーソナルカラーは」みたいなのを、エセ資格持ってるエセ診断士みたいな人が、したり顔で言うのを、「すごいトクベツないいコト聞いた!」みたいに信じ込んで、茶色ばっか着てる人、いたな。
あなたはそんな土色じゃなくて、パステルカラーとか白とかも似合うよ、と言ってみたりしたなぁ。仕事ができなかった彼女は、クビになって何年もたつけど、毎年、忘年会の時期になると、彼女が自前でサンタの衣装を持ってきてコスプレしたのが、職場で話題にあがる。あなたは赤白と、その服で場を盛り上げようとする心意気が、よかったよ。ヘンなの信じる必要ないよ。

「幸せになる」と占い師がすすめる指輪を、4つくらいつけてる人もいた。結婚しても、子供を産んでも、仕事を変えても、「幸せになりたい」が口グセだった。大きな欲望がうずを巻いていた。彼女が求める「幸せ」はなんだっただろう。よく、「金、カネ」と言っていた。幼な子に高額な幼児教育費を次ぎこんでいたな。お金と、子の成功と、それによる自己達成感か。幸せ願望に、食われていると感じていたのは、私だけではなかった。

今はやりのジャンスカとかキャミワンピとか嫌い。
蒼井優が結婚記者会見で白い服の上に、黒いVジャンスカを着てた。それはいいんだ。自己演出だから。それっぽい服を着ている人は、「私、清楚です」感の演出が、もれちゃってる。あと、今年はキャミワンピというか、肩紐つきのゆったりしたオーバースカートを着ている人がやたらと多かった。主婦系インスタグラマーで、踊りながら家の中を紹介する動画を撮ってる人、全員それ。あざとすぎて飛ばす。

(やば、愛子さまが21才誕生日の馬ショットで着てた、愛子さまはいいの、素敵だから)

幼児教育者を批判する人も嫌い。お散歩のワンシーンとか見て、えらそうに批判するなよ。人々は、切り取られたシーンだけじゃなく、24時間、365日、いろんな関係性で生きているんだよ。例えば幼児教育者って、子供の扱いもたいへんかもしれないけど、親とのコミュニケーションとか、幼児教育にまつわる制度とか、同僚とか、あんたのような他人のおしつけとか、そういうので、いっぱい、しがらんでるんだよ。もちろん、その人たちの価値観とかも。無責任に批判するのは、幼児教育に従事する人や、保育士を、やめさせようとする勢力、圧力以外のなにものでもないんだよ。

あーっ、思い出した。「モヤモヤ」が嫌い。
NHK Eテレの番組「愛のモヤモヤ」はいいの。わかっていて、わざとタイトルに持ってきているわけだから。
普通に、心情をちゃんと説明せずに、「モヤモヤ」という表現で、にごすのが嫌い。使わない方がいい。
「モヤモヤ」と言えば、自分は傷つかず、悪者にならず、他者に状況をおもんぱからせる用法は、「尊い」と似てる。
すごい安易。よくない安易。
よく使う人は、よく使う。
文筆業をなりわいとしているのに、文章で使う人は、程度が低いし、説明できなくて避けて、結局、自分かわいがりなんだな、という印象を受ける。

嫌い、とふだん思っているネガティブなことを、わざわざ書くのは、ちょっとためらわれたけれど、しないことを明確にすることで、ではどうすればいいか、ということも明確になる。

枕草子って読んでないけど、清少納言も、似たような感覚があったのかな。