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街道Jウォーク〜赤坂から関ヶ原

中山道は途中険しい山道や川越えもある江戸五街道の一つで日本橋と京都三条大橋を508kmで結ぶ。「契りあらば六つのちまたに待てしばしおくれ先立つたがひありとも」大谷吉継辞世の句である。中山道西のハイライト関ヶ原は戦乱の嵐に散った魂を偲び愁う旅である。

赤坂宿を過ぎるとすぐ左手に昼飯大塚古墳の標識。農家の細い路地をたどると突然、全長150mの巨大な前方後円墳が出現する。4世紀末この地域を治めた豪族の王の墓で、多くの埴輪、勾玉、ガラス玉、鉄剣などが出土している。昼飯は“ヒルイ”と読む。飛鳥時代、本田善光という男が、難波の堀に廃仏毀釈で捨てられた阿弥陀如来像を背にしょって信濃に運んだ。彼がこの地で昼飯を食し供養として一株三幹の杉を植えた。この阿弥陀如来像をご本尊として開かれた長野の寺が善光寺である。

やがて中山道は関ヶ原の入り口で桃配山を左手に見る。古代、大海人皇子が自らの兵に山桃を配って士気を高め、甥である大友皇子を打ち破った地とされる。
672年に天智天皇が近江大津宮で崩御されると皇位継承を巡り、美濃や伊勢をも巻き込んだ近畿広域で二陣営による大バトルが繰り広げられた、壬申の乱である。結局、関ヶ原の不破関を閉塞した大海人皇子により大友皇子は追い詰められ、この地で自害に追い込まれる。大友皇子の首は地元民が貰い受け葬られ、その場所は中山道の杉林の中にあり自害峰と呼ばれている。その後大海人皇子は天武天皇として即位し、日本は中央集権国家として歩み出すことになる。

およそ1000年の時を経た慶長5(1600)年9月15日、関ヶ原に到着した徳川家康は壬申の乱の縁起を担ぎ、桃配山に陣を構えた。中山道はそこから北に北国街道、南に伊勢街道へとつながる不破関に入る。その右手の丸山には東軍の黒田長政、竹中重門両軍の陣、左手の南宮山には西軍の毛利秀元、その奥の松尾山に東西微妙な小早川秀秋、その正対する天満山には西軍宇喜多秀家、その北の笹尾山には西軍大将である石田三成が陣取る。京への西の押さえは三成の重鎮である大谷吉継が小早川を牽制しつつ布陣する。その緊迫した歴史の空気をまとった関ヶ原の道をさらに西へと進む。

大谷吉継は、山中若宮八幡の神社の高台で、天下分け目の合戦の開始を知らせる井伊直政の発砲音を聞く。出し抜かれた先陣の福島正則が西軍主力の宇喜多秀家の部隊に猛然と襲いかかる。この時すでに吉継はハンセン病に冒され歩くことも眼もほとんど見えなくなっていた。彼はこの戦いのはるか前から、家康の天下となる世の流れを読み切っていた。しかし朋友三成を見捨てることができず、毛利元就や秀元の日和見や小早川秀秋らの裏切りも知りつつ、僅か600人の精鋭を輿の上から自在に采配し続けた。小早川に加え藤堂高虎の軍とも互角に戦うも、小早川の押さえで配置していたはずの脇坂、朽木、赤座の味方までもが寝返り、ついに大谷隊は四方を敵に囲まれる。

最期を覚悟した吉継は家臣の湯浅五助に病み崩れた顔を人目に晒すなと「汝、我が首を決して敵に渡すな」と申しつけ割腹した。五郎は苦しめさせぬとすかさず介錯、主君の首を山の奥へ奥へと分入り地中深く埋めた。ところがその場を、追ってきた藤堂高虎の甥の高刑に見つかる。主人の名誉を守るため自らの命と引き替えに五助は高刑に守秘を懇願する。合戦後の首実験で五助の首を献上した高刑は、家康に吉継の首の在処を厳しく問い詰められる。「五助との武士の約束」と口を割らない高刑に、遂に家康の怒りが頂点に達し、家康は背後に置いてあった長槍をやおら突き出す。高刑がその死を覚悟したその時、家康は「藤堂高刑、あっぱれ、有難い武士」とその槍を褒美にとらせ褒め称え、許し、大谷吉継の首の在処を不問とした。

後にその中山道沿いの山中に、藤堂高虎により大谷吉継の墓が建立され、その隣には忠臣湯浅五助も静かに眠っている。中山道の関ヶ原は、戦乱の渦に巻きこまれながら己れの利ではなく、武士としての義を貫いた壮絶な男達の魂が、地中深くまで染み込んだ道なのである。

今回は岐阜県は赤坂宿から、関ヶ原宿までの中山道12kmの歩き旅でした。

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