屋根のない数独
僕は育ちが新宿の裏側で、都心といえば聞こえはいいが、まあ雑多な人が生きる場所で暮らしてきた。
通りすがる人は日本語がわかると思わない方がいいし、帰る家があるのも当然ではない。
浮浪者、乞食、ルンペン。相応しい呼び方が何かはわからないけど、家がない、屋根もないで生きる人が同じ街にそれなりにいることが、日常だと思っている。
雨が降ると、屋根があることを有難く思う。
中学、高校、大学と山登りをやり、テントという布一枚で天地と我が身を隔ててきた経験があり、雨が降ったとき、嵐のとき、たった布一枚しかない心細さと、でも布一枚はあるという救いは身にしみている。
だから、昨日のような凄まじい台風の日に、屋根のない人はどうしているのかと、何を考えているのかと、何か嘆いていないかと、とてもとても心配になる。
毎度、心配になる。
ならば避難所を手伝ったり、雨風をしのげるものを配ったりすりゃいいのだが、情け無いことに、申し訳ないことに、それは足がすくんでしまって、やったことがない。
心配だけして行動できていないし、偽善者すぎる。
が、どうにも足がすくむのだ。許してほしい。
挙げ句が、今日になって台風が去ってから、のこのこと裏街の様子などを見廻りに行くのだから、我ながら呆れる。
幾箇所か、浮浪者がいやすい場所を歩いたが、どこかへ避難しているのか、仕事にでているのか、姿を見なかった。
濡れたダンボールと家財の塊は残されていた。
やっと大久保の脇手あたりの高架下で、いつもそこにいる浮浪者を見かけた。
近づいてみると、彼は座りこんで背をまるめて、小首を傾げてぶつぶつつぶやきながら、何かを覗きこんでいる。手にペンをもち、書きこんでいる。
数独をやっていた。
かなりマス目の多い数独で、なかなか難しそうである。紙は乾いており、数独の本は新しめである。
彼は熱心に、数独のマスに当てはまる数字をあれでもないこれでもないと試行錯誤していた。
楽しそうには見えた。
彼の背後にあるダンボールは、まだ生乾きのようだった。
人間というものへのちょっとした敬意を含んだ不可思議な感情が湧き上がりつつ、僕はその場から歩み去り、歌舞伎町あたりでお茶を濁したい気分になっていた。
それだといえばそれだけの、台風一過のお話し。
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