見出し画像

信仰>理性|トマス・アクィナス【君のための哲学#21】

◻︎提供スポンサー
ハイッテイル株式会社
Mofuwa


☆ちょっと長い前書き
将来的に『君のための哲学(仮題)』という本を書く予定です。
数ある哲学の中から「生きるためのヒントになるような要素」だけを思い切って抜き出し、万人にわかるような形で情報をまとめたような内容を想定しています。本シリーズではその本の草稿的な内容を公開します。これによって、継続的な執筆モチベーションが生まれるのと、皆様からの生のご意見をいただけることを期待しています。見切り発車なので、穏やかな目で見守りつつ、何かご意見があればコメントなどでご遠慮なく連絡ください!
*選定する哲学者の時代は順不同です。
*普段の発信よりも意識していろんな部分を端折ります。あらかじめご了承ください。



信仰>理性


『神学大全』の著者として知られるトマス・アクィナス(1225年-1274年)の主な業績は、アリストテレスを中心とした哲学と、キリスト教思想を統合した体系を作ったことにある。
彼が生きた13世紀はキリスト教にとって激動の時代だった。異教徒の駆逐のために中東イスラム圏に十字軍が派遣されたものの、あえなく失敗。それどころか、十字軍の東への遠征は、イスラム圏の最新科学やアリストテレス哲学をキリスト教圏に持ち込む結果を生んでしまった。言い換えると、信仰の世界に理性の世界が闖入してきたのだ。
時のローマ皇帝はこれを防ぐために様々な対策を行ったが、人間の知的好奇心には勝てなかった。イスラム圏からもたらされた学問が浸透する中で、それまで絶対的だったキリスト教の教えと、アリストテレスの哲学が矛盾していることが問題になる。これはどちらが正しいのか。
アヴェロエスという人は「どっちも正しい。真理は二つある」と言った(二重真理説)。びっくりすることに、この強引な主張は周りをわりかし納得させたらしい。しかし、これではキリスト教と哲学が同レベルのものだということになってしまう。神学側から見れば不満が残るわけだ。
そこでトマス・アクィナスは信仰が理性を上回ることを証明することで、哲学の上位にキリスト教を置くことを試みた。
彼は「理性で説明していることは信仰ですべて説明できる」と主張する。アリストテレスが言っていることは、すでに聖書に書いてある。であるならば、神学も哲学も同一の真理について言及しているものだと認識することができる。
さらに彼は「哲学で説明できないことを信仰で説明することができる」と言う。例えば、物事の原因を考えてみよう。何かの結果には必ず原因が付随する。「結果の原因」は他の原因から生まれている、というように、原因の原因はどこまでも遡ることが可能である。とはいえ、無限に原因を遡れるはずはない。どこかで「最初の原因」にたどり着くはずである。哲学にはこの最初の原因を突き止める方法はない。しかし信仰にはそれができる。つまり「最初の原因」は「神」なのである。
このようにして、信仰は哲学(理性)を上回る。だから、哲学は神学の下部組織としての学問なのである。この擁護により、神学はその立場を守ることに成功し、哲学は(神学の一部分という立場に甘んじるものの)制限付きで研究が許されることとなった。


君のための「信仰>理性」


トマス・アクィナスのロジックは、見ようによっては苦し紛れである。キリスト教は、聖書に書いてある内容から真実を引き出そうとするから、解釈によっては確かに「理性で説明していることは信仰ですべて説明できる」とすることは可能である。しかし、これを以て「信仰と理性は同じ結論を導き出す」とするのは、流石にこじつけが過ぎるだろう。
とはいえ、その後に彼が言及した「信仰>理性」は必見に値する。彼の時代から数百年後。カントは「理性ではどうしても理解できないアンチノミー」を提示したし、さらに後にはハイゼンベルグが不確定性原理を提唱した。それらの主張は「理性には到達できない何かがある」ことを示唆している。トマス・アクィナスは今から800年も前に、理性が万能でないことを予言していたのだ。
私たちはときに理性を万能で完璧なものだと認識する。理性で判断されたものは常に善い。理性でなんでも解決できてしまう。無意識にこう考える傾向があるように思う。
しかし実際の人生を見つめてみると、そこには理性で解決できない諸問題が溢れているように見える。理性を信仰していたら、それらの問題に真っ向から立ち向かうことができない。理性は万能ではなく、理性を超越した大きな存在が「ある」と考えることは、理性の傲慢を抑え、理性という物差しで人をはかる慣習から離れることにつながる。そして、そうした状態こそが、理性という人間に与えられた特別な性質を最大限使いこなすアプローチなのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?